マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

自然とは何か

 昨日の『道草日記』で「自然を語る」ということに触れましたが――
 では、自然とは何でしょうか。

 このことを考えていくと――
 結局は、

 ――自然物とは何か。

 ということを考えるようになると――
 僕は感じています。

 人工物に対しての自然物ですね。

 自然物の定義を考えると、けっこう難しい――
 例えば、海岸に転がっている岩石は自然物ですが、庭園に置かれている岩石はどうでしょうか。

 なるほど――
 岩石という意味では、どちらも自然物ですが、庭園に置かれている岩石には、庭園の一部としての機能が備わっています。

 庭園は、自然物を加工したものです。
 が、全体としては明らかに人工物ですよね。

 よって、庭園に置かれた岩石も人工物とみなさざるをえないでしょう。

 が――
 その同じ岩石を海岸に持ち出して転がしたら、どうでしょうか。

 たぶん、自然物になりますね。
 少なくとも自然物か人工物かの区別は難しくなる――

 同じ理屈で――
 例えば、海岸に転がっている岩石を綺麗に加工してベンチにしたとします。

 それは明らかに人工物のようですが――
 でも、人間が加工するまでは、それは自然物であったわけですよね。

 岩石を高温で溶かしてから固め直したのならともかく、ただ切ったり削ったりしただけならば――
 それは明らかに自然物の側に寄った存在です――少なくとも、合成樹脂のベンチと比べたら――
 なぜならば、ベンチに加工されたあとも、素材としては自然物のままなのですから――

 このように――
 自然物と人工物との区別は、思ったよりも紛らわしいものです。

 では、どこで区別をつけるか。

 僕は、最終的には、人間の脳が恣意的に区分するしかないと考えています。
 具体的には、人間の脳が編み出した属性をどれくらい帯びているかです。

 人間の脳が編み出した属性というのは、例えば「庭園」とか「ベンチ」とかですね。

 もちろん、「岩石」も同じように人間の脳が用いる属性ですが――
 これは「編み出した」というのとは、ちょっと違うでしょう。

 そこに存在しているものを認識するための名札であって、一からこしらえた装置や道具ではない――

 自然物と人工物とは、このような観点から区分するより仕方がないと思うのです。

 自然というのは、自然物が集まったものとみなせます。
 よって、自然を語るときにも、こうした区別をもとに、何事かを語ることになります。