昨日、福田康夫氏が組閣した。
色々な意味で若かった安倍首相――の後継である。
福田氏の昨年からの一連の動きをみていると――
一橋慶喜を思い出す。
後年、徳川慶喜を名乗った男である。
*
徳川慶喜は「最後の将軍」として有名だ。
15代目の将軍であった。
この慶喜が14代目になっていたかもしれぬという話は――
日本史を学んだ者には馴染み深い。
13代家定には子がなかった。
よって、その跡目を、御三家の紀伊家から出すか御三卿の一橋家から出すかで、幕閣は揉めた。
御三家は初代家康が設え、御三卿は8代吉宗が設えた。
家格は伯仲していた。
結局、14代家茂が跡目に決まる。
家茂は紀伊家の出であった。一方の慶喜は一橋家の出であった。
決め手の一つは、血縁の濃淡にあった。
家茂は11代家斉の孫であり、紀伊家の流れを色濃く受け継いでいたが――
慶喜は、実際には一橋家の生まれではなく、水戸家の生まれで、長じて一橋家に養子で入った。
水戸家も御三家の一つである。
が、将軍の輩出を堅く禁じられていた。
慶喜が14代将軍になれなかったのは、そうした事情によるのであろう。
結果的に、これが徳川幕府の滅亡を早めた。
いや――
14代家茂が暗愚であったというのではない。
むしろ、英明な君主であったと伝えられている。
あの口の悪い勝海舟も、家茂のことは高く評価した。
勝だけではない。
家茂を悪くいう人は驚くほど少ない。
が、いかんせん、若すぎた。
13歳で将軍となり、20歳で病没する。
もし、慶喜が14代将軍であれば、22歳からのスタートであった。
その後の歴史は大きく変わっていたであろう。
慶喜は、家茂に劣らず英明で、かつ強かな政略家でもあった。
情に流されることもなかった。
政略で負ければ、あっさりと身を引く男であった。
自らの信念を貫くためには、卑怯者や臆病者の誹りを恐れぬ男でもあった。
*
そんな慶喜に、福田氏が重なる。
福田氏は慶喜になるかもしれない。
自民党の総裁選への出馬を決めたときに、福田氏はTVカメラの前で記者団に、こう洩らした
――ひょっとしたら貧乏くじかもしれんよ。
と――
慶喜は、たしかに貧乏くじを引いた。
さて、福田氏は、どうか。