安倍氏の過ちを一言で表すとしたら、
――私(わたくし)を公(おおやけ)に優先させた。
となろう。
主観的なスローガン「美しい国へ」――
憲法改変への拙速なアプローチ――
偏った価値観に基づく教育改革――
いずれも、とくに国民の気運が高まっているわけでもないのに――
また、国民の毎日の生活に直結するテーマでもないのに――
単に自分が取り組みたかったという理由だけで、ただガムシャラに取り組み始めた政治課題であった。
もちろん――
安倍内閣の取り組んだ政治課題が全て私的なものであった、とはいえない。
例えば、中国や韓国との外交改善は、十分に公的な政治課題であった。
そのような課題ばかりに目を付け、その都度、真摯に取り組んでいたならば――
あのようなブザマな結末を迎えることも、なかったであろう。
当然、僕が『道草日記』で安倍氏を貶(おとし)めることもなかった。
僕が、
――安倍は宰相の器にあらず。
と断じた根拠は――
すなわち――
安倍氏は、明らかに公より私を優先させていたにも関わらず、その自覚が全くなかったらしい、ということである。
ひょっとすると、自分ほど公を重視している政治家はいないと誤解していたくらいではあるまいか。
事は見識の問題である。
10代、20代の若い時分に、政治という営みについて、しっかりと学び、じっくりと考えたか、ということである。
安倍氏には、それがなかった。
だから、真の意味での人望もなかった。
とくに、安倍氏と少し距離のある政治家たちの間で、人望がなかったようである。
内閣支持率が急落し、選挙の看板として機能しなくなって以降――
自民党の若手議員や地方議員たちから、公の場であるにも関わらず、一斉に突き上げを喰らい始めていたが――
これは、安倍氏には当初から上っ面の人望しかなかった、ということを示唆する。
このような安倍氏が、就任当初、高い内閣支持率を誇っていたことは、由々しき問題だ。
この国の民主主義が、まだ未熟であることを意味する。
もっとも、あの支持率の高さについては、一部で捏造の疑惑も取り沙汰されているらしい。
もし、そうなら、まだしも救われる。
安倍氏のメッキが、この国の多くの有権者に通用してしまった、とは考えなくてよいからである。