鏡と絵との違いについて論じたエッセイを、読んだことがある。
たぶん、高校の頃であった。
(鏡と絵だ? 何いってやがる、全然違うものじゃないか!)
などと不審に思って読み進めていくと――
なるほど、たしかに両者は全く違うものだが――
では、具体的に、どんな風に違うのか――
そこが明確に示されていて、当時の僕に強い印象を与えた。
どんな風に違うというのか?
残念ながら、手元に原典はない。題名も著者名もわからない。
僕の記憶を頼りに、ひも解くと――
そのエッセイによれば――
例えば、部屋に鏡を懸けるか絵を懸けるかで、大いに違いが際立つという。
鏡のほうが絵よりも部屋の居住者の心に良い影響を与える、と――
なぜなら――
鏡は、居住者が部屋のどこからみるかによって、異なる風景を写し出すが――
絵は、居住者が部屋のどこからみようと、同じ風景しか写し出せないからだ。
つまり、居住者が立ち位置を変えると、鏡の中身の見え方は違ってくるが、絵の中身の見え方は違わない。
であるならば――
居住者が部屋の中を動くとき、鏡は中身を変化させる。
これは、部屋に見かけ上の奥行きが与えられているといってよい。
鏡は部屋を、見かけ上、増大させるのである。
*
いかなるエッセイ、評論、論説の類いも――
結論の実体は、往々にして、わかりきっている。
その結論に至る過程に肝がある。
鏡と絵とが違うのは当たり前だ。
どう違うと指摘するのか――
どこが違うと主張するのか――
そこに、結論の価値が帰結される。
「まず結論ありき」の議論がつまらないのは――
結論の価値が最初から押し付けられるときである。
押し付けられる側にとっては――
たいてい、最低値からスタートする。
多くの場合、「まず結論ありき」の論陣を展開する者にとって、その結論の価値は、最初から最高値に固定されているのだが――
かかる論陣を眼前で展開される者にとっては、最初は最低値に固定されているものなのである。
その最低値を浮揚させる手だてが、結論に至る過程である。