マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「公私の区別をつける」とは

 ――公私の区別をつける。

 という。

 普通の言い回しだ。
 とくに珍しくもない。

 が、この言葉の意味するところを深く考察してみると――
 マトモな感覚の持ち主であれば皆、ギリギリの葛藤に辿り着くであろう。

「公私の区別をつける」とは何か?

 まず、「公」と「私」とを明確にしたい。

「私」のほうが、「公」よりもわかりやすい。「私」とは、自分の欲望の充足に徹する態度をいう。人間、放っておけば、必ずや「私」に帰る。

 では、「公」とはなにか?
 通常は、社会に広く貢献する態度のように思われている。

 なるほど、そうには違いないが――
 実態は、もっと醜悪だ。

「公」とは、自分以外の全員の欲望の充足に徹する態度をいう。

 その欲望は、「自分以外の全員の」という縛りを受けるので、最大公約数的色彩が濃厚となるが――
 基本的には、他者たちの欲望の充足に徹する態度が「公」である。

 もっといえば――
 他者たちの「私」の集合体が「公」ということだ。

 よって、「公私の区別をつける」とは――
 自分の欲望と他者たちの欲望とを峻別することに他ならない。

 いたずらに「公」の理念を振り回す人には、こうした視点が欠けている。
 おそらく、「公」に「私」的な要素は微塵もないと信じてのことであろう。

 が、その結論では、考察がたりない。