報道によると――
森富さんが亡くなった。
森さんは解剖学者で、文豪・森鴎外の孫にあたる。
「富」は「Tom」を漢字表記したもので、鴎外直々の命名であったらしい。
森さんは僕の先輩だ。
同じ東北大学を、森さんは1944年に卒業され、僕は2000年に卒業した。
長らく母校の教授を務められたが、僕が入学する前には退官されている。
だから、僕との接点は皆無のはずだが、皆無ではない。
11年前の冬、ある名物学者の追悼会が仙台市内のホテルで催された。
布施現之助という解剖学者の没後50年追悼会である。
布施はスイスのチューリッヒ大学に留学をした。
追悼会では、そのときの布施のスケッチの写しが展示された。
この写しは、僕の父が貸与した。
僕の父も解剖学者であった。何十年か遅れて、布施と同じ大学に留学をした。
留学先の恩師から、
――昔、ゲンノスケという日本人が来て素晴らしいスケッチを残して行ったよ。
と、きかされ、興味がわいたらしい。
結局、そのスケッチの写しを日本に持ち帰った。
このことを追悼会の場で紹介されたのが森さんである――いや、森さんであったらしい。
というのは、この日の僕は寝坊をし、会場に到着したときには、すでに会食の時間になっていた。
そんな僕を、ある方が森さんに紹介して下さったので、僕は森さんに御挨拶する機会を得た。
森さんは柔和な笑顔で、僕の予想だにしなかったことを述べられた。
「実は、きみのお父さんの御名前が読めなくてね」
「はあ……」
父は名を「叡」と書き「あきら」とよむ。
が、たいていの人は「えい」とよむ。
森さんも、とりあえず「えい」と、よまれたそうだ。
「――で、本当は、どう、およみするの?」
と仰ったので、
「『あきら』です」
と、お答えしたら、お咎めはなかった。
今、思えば、まずは遅参をお詫びするべきであったのだが――
実は、学生時代の森さんも、寝坊の常習犯であったらしい。
当時を知る老医師に、
――どうしても朝が起きれなかった森富くん
と、からかわれていた。
そのときの森さんの、
――ぷは!
と弾けた笑顔が忘れられない。
当時、森さんは75歳くらいであったが、その笑顔は20代であった。
以来、一度もお会いしていない。
いつでもお会いできる気がしていたが、とんでもない勘違いであった。
御冥福をお祈り申し上げる。