マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

唄は物悲しいものがよい

 何か唄を聴こうとすると――
 なぜか必ず物悲しい唄を選んでしまう。

 なんとなく唄を聴いていて、
(あ、いいな)
 と思うのは――
 なぜか、いつも物悲しい唄である。

 カラオケなどで歌いやすいような――
 元気いっぱいの唄などは――
 何度も聴いてもピンとこない。

 最初は、
(元気があっていいな)
 と思うこともないわけではないが――
 聴いているうちに、だんだんに覚めてしまう。

 つまり――
 僕にとって、唄とは、元気いっぱいであってはならないようだ。

 生の歓喜よりは死の哀切を歌ったものが――
 恋人の出会いよりは夫婦の別れを歌ったものが――
 唄としては好ましく思える――僕の心に、しっかりと響きわたる。

 それは、たぶん――
 僕の心が、いつも、それなりに元気だからであろうと思う。

 もし、僕の心が、いつも悲しみで溢れていたら――
 物悲しい唄などは絶対に聴こうとせぬに違いない。

 が――
 こういうと矛盾するようだが――

 本来、僕は元気いっぱいの心の持ち主などでは、決してなかった。

 とくに10代の頃の僕は、考えてもしょうがないことを、いつまでもクヨクヨと考え、塞ぎ込むことが多かった。

 30代の僕は、まるで別人のようである。
 毎日をやりたいように生きているせいか、常に物事を楽天的に考えている。

 10代の僕を30代の僕に変化させたものは――

 少なくとも、その一つは――

 物悲しい唄への偏向であったと思う。

 物悲しい唄が好きなのは、実は10代の頃からである。

 正確には――
 10代の僕は、元気いっぱいの唄が大嫌いであった。

 ところが――
 物悲しい唄ばかりを聴いているうちに、次第に心が変わっていった。
 今の僕の心は、客観的にみても、おそらくは元気いっぱいである。

 その証拠に――
 今の僕は、元気いっぱいの唄が大嫌いというわけではないし――
 いや、それよりも――
 物悲しい唄が好きだと公言することを、まったく厭わなくなったということが大きい。

 10代の僕は、それを公言できなかった。
 自分の唄の趣味を告白することが、恐かった。