マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

努力をする前に考えるべきは

 ――ムダな努力というものはない。

 などといわれますね。
 どんな努力も、いつかは報われる日がくる、と――

 この言い回しの意味を、10代の頃の僕は、

 ――がんばれば、いつかきっと、いいことがある。

 といった程度に理解していたのですが――
 30代の今は、そうは理解しておりません。

 ――ムダな努力というものはない。

 というのは――
 正しくは、

 ――仮に完全にムダな努力であったとしても、その「努力」を行った者は、以後、それよって得た経験を利用しようと躍起になる。

 ということだと考えています。

 例えば――
 ある子供が、たまたまアパートの隣の部屋に住んでいたアラブ人留学生の真似をして、毎日、イスラム教の礼拝の真似事を欠かさなかったとしましょう。

 その「努力」たるや凄まじく――
 はしかに罹って布団でウンウン唸っているような日でさえも、欠かさなかったとしましょう。

 その子供の両親や同胞たちには、まったく無意味な「努力」にみえるのですが――
 そういう経験をした子供が、大人になって、いつかイスラム圏のボランティア活動などで活躍し、国際的な敬意を払われるかもしれません。

 そのときに、

 ――子供の頃の「努力」が実を結んだのだ。

 と考えるのではなく、

 ――その人は、子供の頃の「努力」が活きる方向に、自然と人生の舵を切ってきたのだ。

 と考えるのです。

 ムダな努力が存在しないのではなく――
 いかなる「努力」もムダにはならない――なりえない――
 ということですね。

 ただし――
 ムダな「努力」が効率的かといえば、ゼッタイにそんなことはなく――

 効率よく生きていこうと思ったら――
 やはりムダな努力はしないほうがいいでしょうね。

 前述の子供がイスラム圏で国際的に賞賛されるまでには――
 常人の想像を超える曲折があったことでしょう(笑

 つまり、努力をする前に考えるべきは、

 ――報われるか、報われないか。

 ではないのです。

 ――効率的か、非効率的か。

 です。

 よって――
 効率というものを度外視できる人は――
 何も考えずに努力をすればいいのでしょうね。