マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

人が人を見誤るとき

 最近、しつこく報道されることはなくなりましたが――
 だからこそ、少しはじっくりと考えることができるかもしれません。

 酒井法子さんのことです。

      *

 一連の報道をみていて、つくづく思ったことは、

 ――人を一面だけで判断すると見誤る。

 ということでした。

 僕は1970年代生まれなので、酒井さんが、いわゆるアイドルとして活動していた頃をよく覚えています。
 そのときの清心なイメージを武器に、女優や歌手としての確固たる地位を築き上げたことも知っています。

 その経歴と、報道されていた酒井さんの言動とが、どうしても結びつかなかったのですね。

(なぜ?)
 と――

 が――
 事件発覚後あるいは起訴後の報道内容を前提に、酒井さんの言動を見返すと――
 とてもよくわかります。

 人として、実に自然に振る舞っている――社会道義的な責任は別にして――

 つまり――
 酒井さんのアイドルとしての清心なイメージだけをみていたから、一連の報道に面食らったのであり――
 そのイメージを最初からもっていなければ、さほど驚くこともなかったであろう、と――

 実際、1990年代生まれの人たちの反応は、僕が察するに、そんなところです。
 ほとんど驚いていない――

 ――え? だって、酒井法子って、そういう人だったんでしょ?

 という感じです。

 まさに「人を一面だけで判断すると見誤る」ということなのですが――
 それでも、つい一面だけで人を判断してしまうのが、人なのですね。

 人の習性です。

 なぜか――

 たぶん、そのほうが心地よいからです。
 あるいは、そのほうが楽だから――

 今回の件でいえば、

  酒井法子 = 清心なアイドル

 という図式を堅持していたほうが楽であり――
 そこに、あえて、

 ――いやいや、ちょっと待てよ。

 などと疑義を挟むのは、かなり苦痛なのです。

「苦痛」がいいすぎなら、「面倒」でしょうか。

 つまり――
 楽をすれば見誤る――面倒を厭わずに、いつも人を多面的にみていれば見誤らない――
 要は、そういうことなのですが――

 その誤謬のカラクリを、酒井さんの一連の報道は十分に実感させてくれました。