マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

議論はすり替えてよい

 ――それは議論のすり替えだ。

 という時は――
 たいてい糾弾ですけれども――

 それが糾弾となるのを――
 僕は、子供の頃から、
(なんか変じゃないか)
 と思ってきました。

 もしくは、
(もったいない……)
 です。

 例えば、議論が停滞しているような時に――
 議論をすり替えることで、結論が円滑に得られそうなら――
 むしろ、議論を積極的にすり替えていくのがよいのではないかと、思うのです。

 なぜ議論のすり替えは糾弾されるのか――

 おそらく――
 議論がすり替えられる時は、多くの場合、議論だけでなく、議題(あるいは、論点)までもが、すり替えられてしまうからです。

 議題が変われば――
 当然、議論は根本から変わりますし――
 それまでの議論の継続性も失われます。

 それまでの議論が唐突に打ち切られるも同然なので――
 それまでの議論に重要性を感じていた人たちは、どうしても糾弾をしたくなるのですね。

 が――
 それは、議論のすり替えそれ自体が悪であることを主張するものではありません。

 本来、議論というものは、議題を変えない限りは、いくらでもすり替えてよいものだと、僕は考えています。

 議論が停滞している時に、その打開策は、ほとんど議論のすり替えしかないからです。

 もし、“すり替え”に何か不正らしき意味合いが感じられるなら――
 別の言葉を用いれば、よいでしょう――“切り替え”とか“差し替え”とか“入れ替え”とか――