マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

なぜ映像を見入ってしまうのか

 きのうの『道草日記』で、
 
 ――写真は豊富な話題を提供するけれども、映像はそれほどでもない。
 
 と述べました。
 
 もちろん――
 これは僕の主観に過ぎないわけですが――
 
 それでも――
 この命題は、真実を少なからず含んでいるように――
 僕には感じられます。

 少なくとも僕は――
 写真をみながらだと、さまざまなことを語ることができ――
 映像をみながらでは、そんなに多くは語れません――つい映像を見入ってしまうのですよね。
 
 なぜなのか――
 
 思うに――
 写真が映像の“断片”であること――より厳密には、映像の“断片”とみなせること――が重要なのではないでしょうか。
 
 映像は、少しずつ異なった写真が数多く連なったもの、と――
 解釈することができます。
 
 映像を完成品とみなせば――
 写真は、その完成品の欠片に過ぎません。
 
 一方――
 映像は、僕らが日ごろ肉眼を通して脳でみている情景に、かなり近いものですよね。
 
 よって――
 僕らの肉眼および脳は、あくまでも映像を完全なものととらえ、写真を不完全なものととらえる傾向にあるのではないでしょうか。
 
 このために――
 人は、映像の“断片”である写真をみたら――
 その“断片”から完成品を再構成するべく、無意識に想像や創造をしてしまうのではないか――
 その結果、脳全体の働きが活性化されて、さまざまなことを語り始めていくのではないか――
 
 そんなふうに考えることができます。
 
 つまり――
 僕が、つい映像を見入ってしまうのは――
 それが完成品であるがゆえに、何も補うことなく、みれてしまうものだから、と――
 考えることができるのですね。