最近――
アメリカの識者たちの間で、
――宇宙人は友好的か、侵略的か。
という議論が熱くなっていると聞き、
(え? なんで?)
と思ったのですね。
まず思ったことは、
(友好的か侵略的かなんて、事前には絶対にわからないから、自分たちにとって都合の悪い方をあらかじめ覚悟しておくという意味で、「侵略的だ」と思っておいたほうが無難では?)
ということです。
つまり、
(そんな熱い議論をするまでもなく、「侵略的だ」でいいに決まってるじゃないか。何を、そんなに熱く議論してるんだ?)
ということだったのですね。
ところが――
この話をよく調べてみると――
実は議論のテーマは、「宇宙人は友好的か、侵略的か」ではなくて、
――この宇宙のどこかにいるかもしれない宇宙人に向かってメッセージを送ることは是か非か。
というものでした。
要するに――
もし宇宙人が友好的なら、地球人類のメッセージを好意的にとらえ、地球人類を教え導くかもしれないが――
もし宇宙人が侵略的なら、地球人類のメッセージに舌をなめずりまわして、地球人類を隷属させようとするかもしれない――
それにもかかわらず――
宇宙人にメッセージを送ることは危険でないといえるのか――
そういう問題提起なのですね。
議論の対象が、
――宇宙人は友好的か、侵略的か。
といった評論ではなく、
――宇宙人にメッセージを送るべきか否か。
といった行動であるので――
熱い議論になっているようです。
評論のための議論は、議論のための議論に堕落してしまいがちですが――
行動のための議論は、いくらでも現実的かつ建設的になってしまうから――
不思議なのですね。
こうした議論の享受は――
アメリカの識者たちに限らず、西欧の識者たち全般が得意としているところのようです。