マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

ハンニバル・バルカの相手役(1)

 カルタゴの将軍ハンニバル・バルカの物語に欠かせない相手役は――
 何人かいますが――

 それらのうち、おそらく最も傑出しているのが――
 ローマの軍人であり政治家であったスキピオ・アフリカヌスです。

 ――スキピオ

 とは当時のローマの名家の家族名で――
 この名家は歴史に名を残す者たちを数多く輩出しました。

 例えば――
 後年、カルタゴを滅ぼすことになるスキピオ・アエミリアヌスは――
 スキピオ・アフリカヌスの妻の甥です。

 「スキピオ・アフリカヌス」も「スキピオ・アエミリアヌス」も渾名のようなもので――
 どちらも、他に本名があるのですが――
 いずれも長いために――
 本名で呼ばれることは稀です。

 むしろ、さらに縮めて――
 叔父の「スキピオ・アフリカヌス」を「大スキピオ」、甥の「スキピオ・アエミリアヌス」を「小スキピオ」と呼ぶことも少なくありません。

 さて――

 ……

 ……

 ハンニバル・バルカの相手役はスキピオ・アフリカヌス――大スキピオのほうです。

 立ち居振る舞いに優れ、弁舌も巧みで、若くして将来を嘱望された人物のようです。

 年齢はハンニバルより10歳ほど若く――
 ハンニバルが包囲殲滅の武名を轟かせたカンナエの戦いには――
 ローマ軍の部将の一人として参加しています。
 
 この戦いでは――
 舅ルキウス・アエミリウス・パウルスがローマ軍の副将でした。

 よって――
 おそらくは重要なポジションを任されていたでしょう。

 ときに弱冠二十歳前後――ハンニバルは30歳か31歳のことです。

 このカンナエの戦いでは――
 おとといまでの『道草日記』で繰り返し述べたように――
 ハンニバル率いるカルタゴ軍が圧勝を収めます。

 舅のパウルスは戦死――
 若き大スキピオは、ハンニバルの天才的な用兵を目の当たりにし、衝撃を受け――
 ほうほうの体で戦場から逃れたに違いありません。

 その頃――
 大スキピオの父と伯父とが、戦況の逆転を狙って、ハンニバルの拠点イベリア半島への遠征を試みます。

 ハンニバルの留守を預かっていたのは、ハンニバルの弟のハスドルバル・バルカでした。

 ハスドルバルは兄の留守をよく預かり、大スキピオの父や伯父を返り討ちにします。

 大スキピオは、ハンニバルとの戦いで舅を失っただけでなく――
 その弟との戦いで自身の父や伯父をも失ったのです。

 父や伯父の戦死の報を受け――
 大スキピオは、持ち前の挙措や演説の技を駆使して、ローマの政権を執ります。

 このとき、わずかに25歳――

 その年齢で政権を執れたのは――
 政治家としての才能だけではなくて、名家の出身であることがものをいったでしょう。

 父や伯父の悲報が同情を集めたのかもしれません。

 ローマの政権を執った大スキピオは――
 父や伯父の敗死の翌年には、自ら兵を率いてイベリア半島へ向かいます。

 大スキピオの参戦で、戦況はローマ軍へ好転しました。

 ハンニバルの弟バスドルバルはイベリア半島から転戦し、イタリア半島にいた兄ハンニバルとの合流を画策しますが――
 アルプス山脈を越えたところでローマ軍に捕捉され、兄との合流を果たせずに、戦死します。

 その首は剥製にされ、ハンニバルの陣地に投げ込まれたそうです。

 ハンニバルは、弟の首が投げ込まれるまで、弟がイタリア半島に来ていたことも知らなかったといいます。
 その驚愕や憤怒は察するに余るものがあります。