何人かいますが――
それらのうち、おそらく最も傑出しているのが――
ローマの軍人であり政治家であったスキピオ・アフリカヌスです。
――スキピオ
とは当時のローマの名家の家族名で――
この名家は歴史に名を残す者たちを数多く輩出しました。
例えば――
スキピオ・アフリカヌスの妻の甥です。
どちらも、他に本名があるのですが――
いずれも長いために――
本名で呼ばれることは稀です。
むしろ、さらに縮めて――
さて――
……
……
立ち居振る舞いに優れ、弁舌も巧みで、若くして将来を嘱望された人物のようです。
年齢はハンニバルより10歳ほど若く――
ローマ軍の部将の一人として参加しています。
この戦いでは――
舅ルキウス・アエミリウス・パウルスがローマ軍の副将でした。
よって――
おそらくは重要なポジションを任されていたでしょう。
ときに弱冠二十歳前後――ハンニバルは30歳か31歳のことです。
このカンナエの戦いでは――
おとといまでの『道草日記』で繰り返し述べたように――
舅のパウルスは戦死――
ほうほうの体で戦場から逃れたに違いありません。
その頃――
ハスドルバルは兄の留守をよく預かり、大スキピオの父や伯父を返り討ちにします。
その弟との戦いで自身の父や伯父をも失ったのです。
父や伯父の戦死の報を受け――
大スキピオは、持ち前の挙措や演説の技を駆使して、ローマの政権を執ります。
このとき、わずかに25歳――
その年齢で政権を執れたのは――
政治家としての才能だけではなくて、名家の出身であることがものをいったでしょう。
父や伯父の悲報が同情を集めたのかもしれません。
ローマの政権を執った大スキピオは――
父や伯父の敗死の翌年には、自ら兵を率いてイベリア半島へ向かいます。
大スキピオの参戦で、戦況はローマ軍へ好転しました。
アルプス山脈を越えたところでローマ軍に捕捉され、兄との合流を果たせずに、戦死します。
その首は剥製にされ、ハンニバルの陣地に投げ込まれたそうです。
その驚愕や憤怒は察するに余るものがあります。