マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(6)

 今川(いまがわ)義元(よしもと)には、

 ――雪斎(せっさい)

 という黒子(くろこ)――大名権力の代理執行者――の僧侶がいたらしい――
 という話を――
 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 当然ながら――
 このような話は、

 ――眉唾モノ

 と、とらえられやすい傾向にあります。

 実際に――
 今川義元の大名権力が長年にわたって代理執行され続けたことを裏づける史料が十分でないことを理由に、

 ――雪斎の今川義元に対する影響力は限定的であった。

 との主張はみられます。

 が――

 仮に、そうであったとしても――
 今川義元が要所要所で雪斎に助言を求めていた可能性は否定できず――

 雪斎が、今川義元にとっての――あるいは、今川氏全体にとっての――精神的な支柱であった可能性は残ります。

 ……

 ……

 雪斎は――
 桶狭間(おけはざま)の戦いの5年前に亡くなりました。

 今川義元は――
 雪斎を失って5年後に命を落としているのです。

 そして――
 その8年後に――
 今川氏は滅亡をします。

 ――雪斎は、今川義元が今川氏の家長になってから、事実上、今川氏の屋台骨であった。

 との見方が生まれるのは――
 致し方ないといえましょう。

 ……

 ……

 歴史に「もし」はありませんが――

 もし――
 雪斎が、もう10年くらい長生きをしていたら――

 今川義元桶狭間で敗死することはなかったでしょう。

 桶狭間の戦いは――
 今川氏が尾張(現在の愛知県西部)への侵攻したことによる――
 と考えられています。

 雪斎が健在なら――
 尾張制圧の軍司令官は、今川義元ではなく、雪斎であったかもしれません。

 少なくとも――
 今川氏が三河(現在の愛知県東部)へ侵攻した際は――
 雪斎が今川義元の代役のような役割を果たしていました。

 裏を返すと――
 三河制圧の際には、今川義元は、直接的には、ほとんど手を下していなかったのです。

 今川氏に最大領土がもたらされたのは――
 たしかに、今川義元の代ですが――

 その領土を実際にもたらしたのは、

 ――今川義元ではなく、雪斎であった。

 と考えられます。

 ……

 ……

 もし――
 桶狭間の戦いのときに――

 雪斎が尾張制圧に乗り出していたとしたら――
 どうなっていたか――

 ……

 ……

 このとき――
 雪斎は、齢64を数えていました。

 一方――
 織田信長は、齢26――

 ……

 ……

 桶狭間の戦いとは全く違った意味で――
 後世の語り草となる戦いが繰り広げられたかもしれません。