マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(5)

 今川(いまがわ)義元(よしもと)が――
 軍司令官として軟弱であったと考えられる理由として、

 ――負け戦の経験だけでなく、勝ち戦の経験も、ほとんどしていなかったからではないか。

 ということを――
 きのうの『道草日記』で述べました。

 これに対し、

 ――今川氏は、今川義元の代で領土が最大になっているのだから、今川義元に勝ち戦の経験がないわけはない。

 との反論が予想されることも――
 述べました。

 この反論への反論は何か――

 ……

 ……

 実は、

 ――今川義元には有能な黒子(くろこ)がいた。

 との見方があるのです。

 ここでいう「黒子」とは、

 ――今川義元の大名権力を代理執行していた者

 という意味です。

 どんな人物なのか――

 ……

 ……

 ――雪斎(せっさい)

 という僧侶です。

 「雪斎」は通名で――
 本名は、

 ――太原(たいげん)崇孚(そうふ)

 といいます。

 今川義元よりも20歳ほど年上でした。

 よって――
 当時としては、ふつうに親子ほどの年齢の開きがありました。

 雪斎は、今川義元が幼年であった頃から、今川義元の教育係を務めました。

 今川義元が今川氏の家長になった際には――
 並々ならぬ指導性を発揮したようです。

 今川義元が家長になってからも――
 雪斎は、今川義元からの全幅の信頼をバックに――
 今川氏の軍事や外交を司り続けたといいます。

 そんなことが一介の僧侶に可能なのか――

 ……

 ……

 十分に可能であったと考えられています。

 一つは――
 雪斎が、今川氏の家来の家に生まれていることです。

 しかも、神童であったようです。

 10代で僧侶になりましたが――
 以後も、今川義元の父・氏親(うじちか)から一目おかれていました。

 今川義元が生まれた際には――
 その父・氏親の強い希望で教育係に任命されたといわれています。

 僧侶ではありましたが――
 今川氏と縁もゆかりもない僧侶であったわけではなく――

 むしろ深い縁故があったといえます。

 さらに――
 当時の僧侶は、学者としての役割も担っていたことを看過するわけにはいきません。

 当時の学問書は漢文で書かれていました。
 いずれも大変に貴重な書物でした。

 そして――
 それら書物は――
 ほとんど寺院にしかありませんでした。

 軍事や外交に限らず、政治や経済の素養――今日でいうところの社会科学的な素養――は、ほとんど寺院でしか学ぶことができなかったと、いってよいのです。

 神童であった雪斎が、若くして寺院に入り、そこで深く、長く学問を修めたのであれば――
 大名権力の代理執行者が務まるくらいの学識は十分に備えていたと考えられます。