コンピュータ・ゲームのなかで――
今川(いまがわ)義元(よしもと)が、若き日の徳川家康に向かって、
――まろに代わって天下をとろうとな?
と質すシーンについて――
きのうの『道草日記』で触れました。
……
……
この2人は――
20ほど歳が離れています。
もちろん――
今川義元が年上です。
この2人が――
比較的よく知られています。
その後、織田信長と手を結びますが――
このこと以外にも――
見逃せない共通点が3つほどあります。
1つめの共通点は――
幼少の頃の教育係が同じ人物であったらしい――
という点です。
徳川家康は、幼少の頃――
この頃の暮らしは、俗に
――人質あつかい
であったといわれていますが――
実際には、かなり自由な暮らしであったようです。
その際に――
伝えられています。
今川義元の教育係といえば……そうです――雪斎(せっさい)です。
年月にしたら、わずかであったようですが――
2つめの共通点は――
自身の本拠を駿府に定めていた点です。
今川義元は――
今川氏の家長になってからは、基本的には駿府を本拠に定めていました。
一方――
徳川家康は――
その際に定めていた本拠は、駿府でした。
その後――
豊臣秀吉の命令で関東地方に配置換えとなり、やむなく本拠を江戸へ移しますが――
息子・秀忠に将軍職を譲り――
自身の本拠を駿府へ戻しています。
よほど駿府が好きであったのでしょう。
3つめの共通点は、
――海道一の弓取り
という異称です。
この異称が今川義元のものであったことは――
きのうの『道草日記』で述べましたが――
その後――
徳川家康の異称になっていたといわれています。
……
……
以上――
3つの共通点から窺い知れることは、
ということです。
為政者としての徳川家康が――
しばしば後世の歴史家によって指摘されることは、
――郷里・三河に根付いていた政治手法をそのまま全国規模に広げた。
ということと、
――「戦国最強」と称される武田信玄から、戦略や戦術を緻密に学んだ。
ということとの2点ですが――
僕は――
今川義元から受けた影響力が、案外、最も強かったのではないか、と――
感じております。
具体的には――
いわゆる帝王学の領域――人心掌握術や組織運営論――などです。
そのような仮説が専門家によって声高に語れることが少ないところをみると――
たぶん史料の裏付けには乏しいのだと思いますが――
ひょっとすると――
このことは、何を意味するのか――
……
……
ということです。
つまり――
今川義元が、もう20年ほど遅く生まれていたら――
彼こそが戦国の世を終わらせ、江戸に幕府を開いていたかもしれない――
ということです。