マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(12)

 コンピュータ・ゲームのなかで――
 今川(いまがわ)義元(よしもと)が、若き日の徳川家康に向かって、

 ――まろに代わって天下をとろうとな?

 と質すシーンについて――

 きのうの『道草日記』で触れました。

 ……

 ……


 この2人は――
 20ほど歳が離れています。

 もちろん――
 今川義元が年上です。

 この2人が――
 桶狭間(おけはざま)の戦いでは、ともに織田信長に対峙していることは――
 比較的よく知られています。

 桶狭間の戦いを生き延びた徳川家康は――
 その後、織田信長と手を結びますが――
 それまでは、徳川家康も基本的には織田信長と敵対していたのですね。

 このこと以外にも――
 今川義元徳川家康との間には――
 見逃せない共通点が3つほどあります。

 1つめの共通点は――
 幼少の頃の教育係が同じ人物であったらしい――
 という点です。

 徳川家康は、幼少の頃――
 今川義元の本拠である駿府(現在の静岡市)で暮らしていました。

 この頃の暮らしは、俗に

 ――人質あつかい

 であったといわれていますが――
 実際には、かなり自由な暮らしであったようです。

 その際に――
 今川義元は自分の教育係を務めた人物を徳川家康の教育係にあてた、と――
 伝えられています。

 今川義元の教育係といえば……そうです――雪斎(せっさい)です。

 年月にしたら、わずかであったようですが――
 徳川家康は、今川義元と同様に、あの雪斎から直に手ほどきを受けているのです。

 2つめの共通点は――
 自身の本拠を駿府に定めていた点です。

 今川義元は――
 今川氏の家長になってからは、基本的には駿府を本拠に定めていました。

 一方――
 徳川家康は――
 織田信長本能寺の変で殺されたあと――
 三河(現在の愛知県東部)・遠江(現在の静岡県西部)・駿河(現在の静岡県中部)・甲斐(現在の山梨県)・信濃(現在の長野県)の5か国を治めるに至りますが――
 その際に定めていた本拠は、駿府でした。

 その後――
 豊臣秀吉の命令で関東地方に配置換えとなり、やむなく本拠を江戸へ移しますが――
 関ケ原の戦いに勝って天下をとり、徳川幕府を開いたあとは――
 息子・秀忠に将軍職を譲り――
 自身の本拠を駿府へ戻しています。

 よほど駿府が好きであったのでしょう。

 徳川家康駿府への愛着は――
 駿府を生涯の本拠とした今川義元に勝るとも劣らないと考えられます。

 3つめの共通点は、

 ――海道一の弓取り

 という異称です。

 この異称が今川義元のものであったことは――
 きのうの『道草日記』で述べましたが――

 その後――
 徳川家康三河遠江駿河・甲斐・信濃の5か国を治める頃には――
 徳川家康の異称になっていたといわれています。

 いわば今川義元名跡を継いだ形になりました。

 ……

 ……

 以上――
 3つの共通点から窺い知れることは、

 ――徳川家康今川義元に対し、終生、親愛の情を保ちつづけたのではないか。

 ということです。

 為政者としての徳川家康が――
 しばしば後世の歴史家によって指摘されることは、

 ――郷里・三河に根付いていた政治手法をそのまま全国規模に広げた。

 ということと、

 ――「戦国最強」と称される武田信玄から、戦略や戦術を緻密に学んだ。

 ということとの2点ですが――

 僕は――
 今川義元から受けた影響力が、案外、最も強かったのではないか、と――
 感じております。

 具体的には――
 いわゆる帝王学の領域――人心掌握術や組織運営論――などです。

 そのような仮説が専門家によって声高に語れることが少ないところをみると――
 たぶん史料の裏付けには乏しいのだと思いますが――

 ひょっとすると――
 当の徳川家康自身が、無自覚に今川義元から影響を受けていたかもしれません。

 このことは、何を意味するのか――

 ……

 ……

 今川義元徳川家康でありえたかもしれない――
 ということです。

 つまり――

 今川義元が、もう20年ほど遅く生まれていたら――
 彼こそが戦国の世を終わらせ、江戸に幕府を開いていたかもしれない――
 ということです。