今川(いまがわ)義元(よしもと)が今川氏に最大領土をもたらしたのは――
雪斎(せっさい)という軍略に長けた人物を重用し、信頼していたからである――
という話を――
きのうの『道草日記』で述べました。
……
……
もし、そうであるならば――
なぜ――
今川義元は、雪斎が亡くなった後――
あえて尾張(現在の愛知県西部)の制圧に乗り出したのか――
……
……
ふつうに考えれば――
雪斎という卓越した軍略家を失った後に侵略戦争を始めても巧くいきそうにないことは、火をみるよりも明らかであるように思えます。
この問いには――
2つくらい答えが考えられます。
1つは、
――今川義元には人を見る目がなかった。
という答えです。
雪斎亡き後、雪斎の後継者たりうる人物を見定め、参謀役に据えていたのだけれど――
その参謀役は雪斎の足元にも及ばず――
結果的に桶狭間(おけはざま)で大敗を喫した――
という見方です。
もう1つは、
――今川義元は自分の軍略の才覚を過信した。
という答えです。
雪斎は、たしかに卓越した軍略家ではあったが――
その雪斎から幼少の頃より直に教えを受けていたのは――
ほかならぬ今川義元自身です。
――余ならば、雪斎をしのぐこともできよう。
と思ったとしても不思議はありません。
が――
実際には、雪斎の教えの表面しか理解できていなかった――
それゆえに――
まさに、
――生兵法は怪我のもと
を地で行くような大敗を――
桶狭間で喫してしまった――
そういう見方です。
……
……
いかがでしょう。
このような見方で――
皆さん、ご納得いただけるでしょうか。
……
……
たぶん――
今川義元に深い関心を寄せていなければ、
――まあ、そういうこともありうるだろう。
で済んでしまう話であろうと思います。
何を隠そう――
僕自身――
つい先日までは、そのように思っていました。
(今川義元は、人を見る目がなかったか、もしくは自分の力量を過信していたに違いない)
と――
……
……
が――
ここ数日――
(ちょっと待てよ)
と思うようになったのですね。
今川義元への多大なる関心が――
僕に、3つめの答えを考えさせました。
その答えは――
あす以降――