マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(9)

 今川(いまがわ)義元(よしもと)は――
 なぜ、卓越した軍略家であった雪斎(せっさい)を失って、なお尾張(現在の愛知県西部)の制圧に乗り出したのか――

 この問いに対し、

 ――今川義元には人を見る目がなかった。

 という答えや、

 ――今川義元は自分の軍略の才覚を過信した。

 という答え以外にも――
 3つめの答えが考えられる――
 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 この3つめの答えとは――
 どのようなものか――

 ……

 ……

 当然ながら――

 ――今川義元には人を見る目があった。

 ということと、

 ――今川義元は自分の軍略の才覚を過信したりはしていなかった。

 ということとが前提となります。

 つまり――
 今川義元は――
 配下に雪斎のような優秀な軍司令官がいないこと――
 雪斎にとってかわれるだけの才覚が自分にもないこと――
 を正しく認識した上で――

 それでも――
 あえて尾張の制圧に乗り出した――

 という答えになります。

 ……

 ……

 なぜ――
 今川義元は、そのような無謀ともいえる尾張侵攻を試みたのか――

 ……

 ……

 ――他に選択肢がなかったから――

 というのが――
 僕の推測です。

 常識的に考えれば――
 雪斎亡き後の今川氏は、領土の拡張を自重し――
 雪斎に代わりうる人材が出現するまで、守成に徹するべきであったように思えます。

 そのことは――
 今川義元も十分にわかっていたのではないか、と――
 僕は思います。

 が――
 当時の今川氏の状況が――
 それを許さなかった――

 当時の今川氏は――
 北方で甲斐(現在の山梨県)の武田氏と対峙し――
 東方で相模(現在の神奈川県)の北条氏と対峙していました。

 武田氏も北条氏も――
 今川氏と同等か、それ以上の勢力を保っていました。

 これら二氏からの圧力に抗しながら――
 何とか駿河(現在の静岡県中部)を抑え――
 西方の遠江(現在の静岡県西部)や三河(現在の愛知県東部)へと領土を拡張し――
 二氏からの圧力を跳ね返すだけの勢力を手にしたい――
 と考えていました。

 このビジョンを示し――
 具体的な外交策を立案し、実行していったのが、雪斎であったと考えられています。

 雪斎は――
 いわゆる、

 ――甲相駿三国同盟

 を締結させ――
 駿河の今川氏が、甲斐の武田氏や相模の北条氏からの脅威を弱めることに成功します。

 この三国同盟の下で――
 今川義元は、遠江三河を完全に掌握し、尾張(現在の愛知県西部)へ領土を拡張させるチャンスを得ました。

 こうしたビジョンを明確に示していたからこそ――
 今川氏は、駿河遠江三河の豪族たち(国人衆)を巧く束ねられていたに違いありません。

 それなのに――
 雪斎亡き後の今川氏が、

 ――雪斎が亡くなったから――

 という理由で――
 駿河に引きこもって守成に徹していたら、どうなっていたでしょうか――

 当然ながら――
 今川氏が束ねていた豪族たちは、不安にかられて反旗を翻していたでしょう。

 また――
 甲斐の武田氏や相模の北条氏も、

 ――義元は臆したか――

 と訝り――
 同盟を破棄して駿河に攻め込んできたかもしれない――

 ……

 ……

 ――しっかりと駿河を守って生き残っていくには、遠江三河を抑え、たとえ勝てる見込みが十分ではなかったとしても、尾張へ攻め入るしかない。

 それが――
 今川義元の結論ではなかったでしょうか――

 ……

 ……

 歴史物の小説やマンガ、映画、TVドラマなどでは――
 桶狭間(おけはざま)の戦いの直前――
 駿河を発って尾張へ向かう今川義元を、

 ――威風堂々

 と描写します。

 ――朱塗りの輿に泰然と座り、二万余の大軍を自ら率いて悠然と行軍を開始した。

 というようにです。

 が――
 僕は、
 (ちょっと違うのでは?)
 と思っています。

 たしかに――
 外目には「泰然と座り」でよく、「悠然と行軍」でよいのですが――
 内心では、

 ――いいようのない不安に苛まれながらも、何とか自分自身を奮い立たせて輿に乗っていた。

 というのが正しいのではないか――

 そう思っています。