マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(16)

 今川(いまがわ)義元(よしもと)は――
 いわゆる戦国大名としては、いま一つ人気がありません。

 あの織田信長が相手であったとはいえ――
 あっさり戦場で殺されてしまったのが原因でしょう。

 その子の今川氏真(うじざね)にいたっては――
 さらに輪をかけて、人気がありません。

 理由は――
 もちろん――
 今川氏が、氏真の代で没落したからです。

 が――
 それだけではありません。

 今川氏真は、軍略よりも和歌を好み、武芸よりも蹴鞠を好む――
 まさに、

 ――お公家さん

 のような人物でした、

 5日前の『道草日記』で――
 コンピュータ・ゲームの登場人物としての今川義元に触れました。

 軍略や武芸よりも和歌や蹴鞠を好む人物として描かれている今川義元です。

 このキャラクター造形の少なくとも一部は――
 史実の今川氏真をもとにしています。

 史実の今川義元は、和歌や蹴鞠は、やっていたとしても、たしなむ程度であり――
 深くのめりこむようなことはありませんでした。

 今川氏真は違いました。

 かなり深くのめりこんでいたようです。

 ただし――
 和歌や蹴鞠に耽って軍務や政務を怠った――
 というのは俗説です。

 史実の今川氏真は――
 為政者として、それなりの努力をしています。

 が――
 いかんせん――
 成果をあげることができませんでした。

 甲斐(現在の山梨県)の武田信玄からは侮られ――
 三河(現在の愛知県東部)や遠江(現在の静岡県西部)の豪族たち(国人衆)には背かれて――

 父・義元が桶狭間(おけはざま)で戦死を遂げてから、10年ともたずに――
 戦国大名としての今川氏は滅亡をします。

 文化人としての資質は、ともかく――
 政治家としての資質は、父・義元には遠く及ばなかったのです。

 それだけではありません。

 見過ごせないのは――
 今川氏滅亡前後の今川氏真の生き様です。

 武田信玄に攻められ、ろくな抵抗もできず――
 本拠の駿府(現在の静岡市)を逃げ出します。

 律儀な家来を頼って遠江掛川城へ逃げ込んだあと――
 今度は、かつての配下・徳川家康に攻められ、降伏をします。

 その後は――
 妻の実家である北条氏を頼って相模(現在の神奈川県)に移り――
 その北条氏に疎まれ始めると――
 今度は、徳川家康を頼って逃げ出し、その庇護下で匿われるのです。

 本拠の駿府に立てこもって懸命に戦い、敗れ、死んでいったのであれば――
 だいぶ違った印象になったでしょうが――

 史実の今川氏真は――
 逃げて、降って、逃げて、匿われているのですね。

 いわゆる戦国大名としては、

 ――落第点

 の晩節です。

 不人気なのは当然といえます。