マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(17)

 今川(いまがわ)義元(よしもと)の子・氏真(うじざね)が――
 戦国大名として、すこぶる不人気であることは――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 今川氏真が、現代人から不人気である理由は――
 きのうの『道草日記』で述べた通りですが――

 同時代人および、それより少し後の時代の人々からも――
 今川氏真は、大いに不人気でした。

 その理由は――
 少し生々しいものです。

 ……

 ……

 今川氏が没落をしたのは――
 今川氏真が30歳の頃でした。

 それから5~6年が経ち――
 今川氏真が30代半ばを過ぎた頃――

 今川氏真は、ある要人の求めに応じて京の寺院に赴き、公家たちに混じって蹴鞠の芸を披露します。

 その「要人」とは、

 ――織田信長

 です。

 父・義元を戦死させた張本人です。

 今川氏真は――
 よりによって父親の仇の前で、蹴鞠に興じてみせたのですね。

 これが――
 同時代人には極めて不評であったようなのです。

 ――父親の仇に媚びへつらうとは……! それでも武家か!

 というわけです。

 たしかに――
 戦国期は、もちろんのこと――
 織豊期から江戸期までの人々の感覚でいえば――
 今川氏真の採った行動は、

 ――恥知らず!

 とか、

 ――臆病者!

 とかいった誹りに十分に値するものでした。

 しかも――
 このときの今川氏真は、後年のように完全なる文化人として暮らしていたわけではありません。

 その後――
 織田信長の事実上の配下にあった徳川家康のさらに配下にある武将として行動を起こし――
 武田信玄の子・勝頼(かつより)に敵対しました。

 その際に――
 敵方の敗残兵の掃討の功績が認められ、一時的に遠江(現在の静岡県西部)の小さな城の主に納まっています。

 完全なる文化人として、あえて父の恨みを水に流し、無の境地となった上で――
 織田信長に蹴鞠の芸を披露したわけでは――
 なかったのですね。

 今川氏真が、同時代人や、それより少し後の時代の人々から、露骨に蔑まれたのは――
 無理からぬことでした、