マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(10)

 今川(いまがわ)義元(よしもと)は、桶狭間(おけはざま)の戦いの直前――
 自ら大軍を率いて出立する際に、

 ――いいようのない不安に苛まれながらも、何とか自分自身を奮い立たせて輿に乗っていたのではなかったか。

 との推測を――
 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 この“輿に乗っていたこと”が――
 少なくとも結果的には――
 今川義元の命取りになった、と――
 今日、伝えられています。

 桶狭間今川義元の本陣を急襲した織田信長らは――
 そこが、たしかに今川義元の本陣であることを――
 輿の存在によって確信した、と――
 考えられているのです。

 もし――
 輿に乗って戦場にやってきていなければ――
 今川義元は、織田信長らの急襲をかわし、戦場を無事に離脱できていたかもしれません。

 なぜ――
 今川義元は、わざわざ輿に乗ったのでしょうか。

 戦場で輿などに乗っていれば――
 いざというときに素早い身動きが、とれそうにもありません。

 ――今川義元胴長短足だったので、馬にも乗れなかったのだ。

 との俗説が伝わっています。

 が――
 それは、どうやら後世の創作――ないしは、中傷――のようです。

 馬に乗れたのであれば――
 なぜ、わざわざ輿に乗ったのか――

 ……

 ……

 5日前の『道草日記』でも触れたように――
 一般には――
 当時、輿に乗って外出をすることは、足利将軍家から特別に許された行為であったため――
 その特権を誇示する意味合いがあった、と――
 考えられています。

 では――
 そのように特権を誇示することが――
 戦場において――
 どのような意味をもったのでしょうか。

 ……

 ……

 おそらくは――
 輿に乗って戦場に出ることで、少なくとも足利将軍家の権威を受け入れている豪族たちに対し――
 多大な心理的影響を及ぼしうる可能性がありました。

 今川氏に本気で敵対するか決めかねていた豪族たちを――
 今川氏になびかせることが、できたかもしれなかったのです。

 今日の視点では――
 その可能性はナンセンスに思えます。

 相手は――
 この国の近世の幕を開けたといわれる織田信長です。

 その織田信長に付き従うと決めていた豪族たちが――
 足利将軍家の権威に恐れ入ることは、実は考えにくかった――

 が――
 それは、あと知恵です。

 当時――
 織田信長は、稀代の変わり者と蔑まれていました。

 奇行の数々が近隣諸国に伝えられていたのです。

 ――立派な輿の一つもみせれば、うつけ者の信長に付き従うのをためらうやもしれぬ。

 少なくとも、今川義元らは――
 そう考えたに違いありません。

 つまり――
 戦場で素早い身動きがとりにくくなるデメリットよりも――
 敵につくか味方につくかで迷っているであろう敵方の豪族たちをなびかせうるメリットのほうが大きい――

 そう――
 今川義元は最終的な判断を下したに違いないのです。

 もちろん――
 実際には、デメリットのほうが遥かに大きくて――

 そのことを――
 今川義元は、はからずも自ら証明してしまったわけですが――

 それは――
 あくまでも結果論です。

 戦術的には、ともかく――戦略的には――あるいは、外交的には――
 輿に乗って戦場に出向くという発想にも――
 一定の意義が見出せたのです。

 よって――
 卓越した軍略家である雪斎(せっさい)が、もし桶狭間の戦いのときにも健在であったら――
 今川義元に対し、次のように進言をしたかもしれません。

 ――大軍の利を活かせる平原では輿にお乗りくださりませ。大軍の利を活かせぬ山間では馬にお乗りくださりませ。

 桶狭間の近辺は山間部ですから――
 その進言を容れれば、今川義元は馬で行軍をしたはずです。

 そして――
 輿は、あえて今川義元の身から遠く離れたところで運ばせる――

 もし、桶狭間に雪斎がいれば――あるいは、雪斎に匹敵しうる軍略家がいれば――
 そのような配慮も行き届いていたように想像します。