マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(4)

 今川(いまがわ)義元(よしもと)は――
 少なくとも中世的な感覚では、

 ――政治家としては英明

 であり、

 ――軍司令官としては軟弱

 であった、と――
 きのうの『道草日記』で述べました。

 ……

 ……

 「政治家としては英明」のほうは、ともかく――
 「軍司令官としては軟弱」のほうは、どういうことか――

 ……

 ……

 ――今川義元が軟弱など、とんでもない。

 との見解があります。

 最期となった桶狭間(おけはざま)の戦いでは――
 斬りかかってきた敵兵の膝に斬り返して撃退したり――
 自分の首を斬りとろうとした敵兵の指を食いちぎったりしていて――
 凄まじい抵抗をみせました。

 たしかに――
 お歯黒をつけ、輿に乗って戦場に赴いたのは史実のようですが――

 当時――
 お歯黒をつけることは、身分の高い武将が戦場に赴く際のたしなみの一つであり――
 輿に乗ることは、武家の棟梁である足利将軍家から格別に許された特権でした。

 決して今川義元が軟弱であったことを示す証しとはなりません。

 では――
 なぜ「軟弱」なのか――

 ……

 ……

 一つは――
 桶狭間の戦いの結果です。

 自身が戦死していることは、もとより――

 このとき――
 今川義元は、2万5千人の兵を率いていたと考えられています。

 対する織田信長は、6千人ほどでした。

 今川義元は、自身の3分の1くらいの戦力に敗れて死んだのです。

 桶狭間の戦いについては――
 戦闘の経緯の詳しい史料は残っていません。

 よって――
 研究者らによって多分に推測をまじえて語られることが多いのですが――

 いずれにも共通して指摘されるのは、

 ――織田信長の3倍の兵数を集めながら、その数的優位を活かせなかった。

 という点です。

 大勢の兵士たちが一堂には会せない地形の場所に入り込んで―― 
 兵力が分散してしまっていたところを――

 織田信長の率いた2千人の兵が急襲したようです。

 急襲されたとき――
 今川義元の周囲には、2千を大きく下回る兵士たちしかいなかった、と――
 考えられています。

 このことをもって、

 ――今川義元は、柄にもなく、油断をしたのだ。

 と語られることがあるのですが――

 (そうではないだろう)
 と――
 僕は思います。

 今川義元の生涯をたどるとき――
 気づくことがあります。

 それは――
 今川義元は、41歳で桶狭間の戦いに至るまで、これといった負け戦(いくさ)を経験していないらしい――
 という点です。

 例えば――
 織田信長は、桶狭間の戦勝の後に、何度か悲惨な負け戦を経験しています。

 ――戦国最強

 と称された武田信玄も、若い頃から何度か深刻な負け戦を経験しています。

 豊臣秀吉徳川家康も、そうです。

 が――
 今川義元は違う――

 自分が派遣した軍が敗れた経験はあるようですが――
 自分で引率した軍が敗れて逃げ帰った経験は、どうも、ないようなのです。

 そういうことであれば――

 今川義元も人です。

 どうしても戦の現実を甘くみてしまったことでしょう。

 地に足が着いていない感じで、不用意に戦に関わろうとした――

 そのような性向が――
 少なくとも桶狭間の戦いの直前の今川義元には、感じられます。

 そのことを指して――
 僕は、

 ――今川義元は、軍司令官としては軟弱であった。

 といっています。

 もう一つ――
 今川義元が軍司令官として軟弱であったと考えられる理由は、

 ――負け戦の経験だけでなく、実は勝ち戦の経験も、ほとんどしていなかったのではないか。

 ということです。

 こう述べると、

 ――そんなことはない。

 との反論を受けるかもしれません。

 ――今川氏は、今川義元の代で領土が最大になったというではないか。戦で領土を奪い合う時代に、領土が拡張されて最大になっているのだから、勝ち戦の経験がないわけはない。

 と――

 が――

 実は――
 そうともいえないのです。

 ……

 ……

 この続きは――
 また、あすに――