マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(3)

 ――軟弱な愚将なのか、英明な名将なのか――そこが、わかりにくい、というところに、今川(いまがわ)義元(よしもと)の最大の魅力がある。

 ということを――
 きのうの『道草日記』で述べました。

 一般に、

 ――日本の歴史に興味はあるけれど、すごく興味があるわけではない。

 という人は、

  =軟弱な愚将

 と考える傾向にあり、

 ――日本の歴史に、すごく興味がある。

 という人は、

  =英明な名将

 と考える傾向にある――
 というようなことも述べました。

 ……

 ……

 このような二面性に着目をして――
 今川義元の生涯をたどっていく――

 気になる点が2つほどみえてきます。

 一つは――
 日本の戦国期にあって、

 ――軟弱

 や、

 ――英明

 は、いかに定義されるべきか――
 という点です。

 日本の戦国期は、中世(鎌倉期・南北期・室町期)から近世(織豊期・江戸期)への過渡期です。

 例えば――
 日本の戦国期を終わらせたと考えられている織田信長は――
 最初の近世人であったといわれる一方――

 日本の戦国期で最も有名な人物と目される武田信玄は――
 最後の中世人であったといわれます。

 中世的な感覚をもっていた人々と近世的な感覚をもっていた人々が同居をしていた時代――
 それが、日本の戦国期です。

 そのような過渡期にあって、「軟弱」や「英明」をいかに定義していくかには――
 いくらか慎重になっておくほうがよいでしょう。

 もう一つは――
 日本の戦国期の大名たちは――
 政治家の一面と軍司令官の一面とを併せもっていた点です。

 政治家としては愚鈍でも、軍司令官としては名人である、とか――
 軍司令官としては軟弱でも、政治家としては英明である、とかいったことが――
 おおいに、ありえたのです。

 ……

 ……

 察しのよい方は――
 すでにおわかりかと思いますが――

 僕は――
 今川義元は――
 近世人というよりは、中世人の感覚をもっていて――
 かつ――
 政治家としては英明であったが、軍司令官としては軟弱であった――
 と考えています。

 もちろん――
 ここでいう「政治家としては英明」や「軍司令官としては軟弱」は――
 あくまで中世的な感覚に基づきます。

 桶狭間(おけはざま)で織田信長に敗れ、戦死をした今川義元は――
 あくまで中世人として生涯を終えました。

 が――
 もし、桶狭間から生きて帰っていたら――

 その後の今川義元は、どうなっていたか――

 ……

 ……

 もちろん――
 歴史に「もし……」は無意味です。

 そんなことを問う意義は極めて乏しいのですが――

 それでも――

 (その後の日本の歴史が、まったく違った展開になったかもしれない)
 と――
 僕は思います。

 ほうほうのていで駿河(するが)に逃げ帰った今川義元は――
 その後、中世的な感覚を保ちつつ、新たに近世的な感覚を学びとって――
 
 10年後や20年後に――
 その頃、近畿地方で覇を唱えつつあった織田信長へ、乾坤一擲の再戦を挑んだかもしれない――

 そう思うのです。