マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

今川義元のこと(2)

 日本の歴史に少しでも興味のある人なら――
 たぶん、

 ――今川(いまがわ)義元(よしもと)

 の名前は知っています。

 が――
 その日本の歴史への興味の度合いによっては――

 思い描く今川義元の人物像は――
 かなり違ってくるはずです。

 ……

 ……

 ――日本の歴史に興味はあるけれど、すごく興味があるわけではない。

 という人は――
 今川義元のことを、

 ――軟弱な愚将

 と思っているでしょう。

 戦国期――
 今川氏が治めた駿河(するが)の国――現在の静岡県中部――は、京風の公家文化が波及していました。

 今川義元自身は違うのですが――
 今川義元の父や祖父は、京の都の女性を娶っています。

 また――
 今川義元の後を継いだ息子・氏真(うじざね)などは――
 軍略や武芸よりも、蹴鞠や和歌のほうが得意であったようです。

 そして――
 何より今川義元自身――
 桶狭間(おけはざま)の戦いでは、馬ではなく輿(こし)に乗って戦場に赴いたとの記録が残っています。

 殺すか殺されるかの戦場にあって輿に乗ってるのは――
 何とも暢気で悠長です。

 また、ちょっと気合の入った歴史物の映画やTVドラマなどでは――
 今川義元は、お歯黒をし、烏帽子をかぶっていたりする――
 まさに、

 ――お公家さん

 の出で立ちなのですね。

 よって、

  =軟弱な愚将

 の図式が成り立ちうるのです。

 一方、

 ――日本の歴史に、すごく興味がある。

 という人は――
 今川義元のことを、

 ――英明な名将

 と思っているでしょう。

 今川氏は、足利幕府を開いた足利氏の一門です。

 鎌倉期から南北期、室町期、戦国期に至るまで――
 駿河の国、遠江(とおとうみ)の国、三河(みかわ)の国で――
 大なり小なり影響力を保ちました。

 現在の愛知県東部から静岡県中部までの地域です。

 そして――
 今川氏の領土が最大に広がったのは――
 他ならぬ今川義元の時代です。

 金山を開発し、街道を整備し、商業を活発にしました。

 実は――
 当時の今川氏が治めていた地域では、それほどお米がとれませんでした。

 その弱点を冷静にとらえ――
 今川義元は、稲作に頼らない富国政策を採ったのです。

 また――
 今川義元の父・氏親(うじちか)は――
 先駆的な分国法を制定したことで知られます。

 分国法とは、自分たちが直に治める領国で用いる法律のことです。

 今川氏の定めた分国法は優れていて――
 しばしば、

 ――戦国最強

 と称される甲斐(かい)の国(現在の山梨県)の武田氏は――
 今川氏の分国法を積極的に取り入れました。

 そんな先駆的な分国法を――
 今川義元は、自分の代において、時代の要請に合わせる形で、さらに追加・修正しているのです。

 なかなかに英明な君主ぶりといえるでしょう。

 よって、

  =英明な名将

 の図式が成り立ちうるのです。

 ……

 ……

 軟弱な愚将なのか――

 それとも――
 英明な名将なのか――

 ……

 ……

 (この二面性こそが、今川義元の最大の魅力である)
 と――
 僕は思っています。