――ファンタシー(fantasy)
では――
例えば――
――僕らが生きている“この世界”
には、
――作為性からの独立
という側面がある――
ということを示しうる――
と、きのうの『道草日記』で述べた。
――作為性からの独立
とは、
――“この世界”は、作為的に創られていようと無作為的に創られていようと、個人の生きる喜びや生きる苦しみには、大した影響を及ぼさない。
ということである。
……
……
ただし――
その、
――ファンタシー
の“紡ぎ手”が何を、
――物語の芯
と捉えているのかは――
また別の問題である。
その“紡ぎ手”にとって、
――“この世界”の“作為性からの独立”
が、必ずしも、
――物語の芯
とは限らない。
あくまでも、
――個人の生きる喜びや生きる苦しみ
が“芯”であって――
――“この世界”の“作為性からの独立”
は、副産物の一つとして示されているに過ぎない――
ということは、大いにありうる。
場合によっては――
そのような副産物が示されていることに“紡ぎ手”が気付いていない――
ということさえ、ありうる。
――“この世界”に“作為性からの独立”があるかどうかは、考えたこともない。そのようなことは、どうでもよい。私は、ただ“個人の生きる喜びや生きる苦しみ”を描きたかっただけである。
というように――
……
……
このような場合――
――物語の紡ぎ手
は、
――個人の生きる喜びや生きる苦しみ
を描くことに専念をしていて――
それを描くには、
――僕らが生きている“この世界”
よりも、
――僕ら生きている“この世界”とは“異なる世界”
のほうが、効果的である――
との判断を下していることになる。
ただし――
その判断が、
――物語の紡ぎ手
によって明確に意識をされているかどうかは――
また別の問題だ。
――ファンタシー
に限らず――
――物語の紡ぎ手
が、自身の、
――物語
の全てを明確に捉えている――
とは限らない。
むしろ――
捉えていない部分もあることのほうが、多い。
『物語』