マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

幸せへの感受性を研ぎ澄ませる

 幸せは、不幸せがあって、ようやくわかるものなのですね。
 幸せが続けば、それは幸せには感じられなくなる――

 何とも罪深い――
 が、それは人の心の属性でしょう。

 幸せが続けば、幸せへの感受性が落ちるのです。
 だから、幸せを幸せとは感じられなくなる――

 幸せへの感受性を落とさないようにするには、どうしたらいいのでしょうね。

 ときどき不幸せになってみる?

 たしかに、それは効果的かもしれません。

 が――
 その不幸せが底なしになったらと思えば、恐くなってしまいます。

 では、不幸せを疑似体験してみる?
 そういう物語に触れたり、不幸せな人々の暮らしを見聞きしたり――

 それも、それなりに効果的ではありましょう。

 が――
 そうした態度は、ちょっと意地汚いですよね。

 では、どうするか。

 幸せへの感受性を落とさないためには――
 暮らしのノイズを減らすことでしょう。

 暮らしのノイズとは、幸せでも不幸せでもない事象や現象のことです。
 逆に、暮らしのシグナルとは、幸せや不幸せの体験です。

 自分にとって、それが喜びなのか悲しみなのか、あるいは、楽しみなのか苦しみなのかがわからない――
 それはノイズです。

 シグナルをしっかりと感じるためには、ノイズには近づかない、手を出さない――
 それが最も確実です。

 若いうちは、そうもいっていられません。

 色々なことに近づき、手を出し、何が自分にとっての喜びなのか、悲しみなのか、楽しみなのか、苦しみなのか――
 それを知るように努めなければ、豊かな心は育めません。

 心が豊かでなければ、幸せを幸せと感じる素地が調わない――

 が――
 ある程度の人生経験を積んだなら――
 ノイズは不要になります。

 ノイズを減らしてシグナルを待つ――

 つまり、幸せの感受性を落とさないようにするには――
 見通しのきかない模索は、できるだけ控える、ということですね。

 人は、老いとともに保守的になるといわれますが――
 それは、ノイズを減らしているのです。

「保守的になる」というと、とても否定的な響きがします。

 が――
 必ずしもそうではない――

 別の見方をとれば、幸せへの感受性を研ぎ澄ませるということです。