マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

生者にも永遠平和を――

 18世紀プロセインの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)の著作の1つに、

 ――永遠平和のために(Zum Ewigen Frieden)

 がある――

 ということを僕が知ったのは、20歳くらいのことでした。

 

 その題名をみたときに、

 (陳腐だな)

 と思ったのを覚えています。

 

 おそらく、

 (永遠の平和なんてありえないことは歴史が証明をしてるじゃないか。何をいってるんだ、この哲学者は――)

 と無意識に苛立ったのでしょう。

 

 が――

 それから 30 年近くが経って――

 あらためて、

 ――永遠平和のために――

 という語句をみると、

 (70 歳を過ぎて、この語句を題名に据えられる胆力は凄い)

 と感じます。

 

 カントが『永遠平和のために』を著したのは 71 歳になる年のことでした。

 

 ――永遠平和のために――

 というのは――

 カント自身によると、オランダの宿屋の名前に由来をします。

 

 ――永遠平和亭

 といった意味の名前であったのでしょう。

 その名前を示した看板の脇に墓地の絵が描かれていたのだそうです。

 

 ――永遠平和

 というのは、元来は、

 ――死者だけが享受をしうる平穏

 くらいの意味であったようです。

 

 この意味での「永遠平和」は、当時のヨーロッパでは、ありふれた言葉であったといいます。

 そんな言葉を、カントは、あえて哲学の著作の題名に取り入れたのです。

 

 71 歳というのは――

 当時としては老境の極みでした。

 

 いつ亡くなっても、おかしくはない――

 

 そして、

 ――永遠平和

 は、元来は墓地の主たちに手向けられる言葉でした。

 

 このことから、

 (『永遠平和のために』は迫り来る自身の死と向き合った結果の題名であったに違い)

 と僕は思います。

 

 表向きは、

 ――永遠平和を死者たちだけが浴せる恩恵にしておく必要はない。

 ということでしょう。

 

 ――生者にも永遠平和を――

 ということです。

 

 あるいは、

 ――これまでの人類史における数々の国家間戦争で失われてきた人命を無駄にしないために――

 といった捻じれた意味も込められていたかもしれません。

 

 皮肉といえば皮肉ですが――

 

 仮に皮肉であったとしても――

 自身の死が迫り来る状況では――

 それは、悪意や邪気を込めた皮肉ではなかったに違いありません。