マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

永遠平和の近似

 18世紀プロセインの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は、

 ――生者にも永遠平和(ewigen Frieden)を――

 と考えて――

 齢 70 を過ぎて、あえて、

 ――永遠平和のために(Zum Ewigen Frieden)

 の題名の著作を世に問うたのではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 歴史を振り返れば、

 ――永遠平和

 の成就は夢想です。

 

 これまでに――

 ごく局所的にであれば、永遠に続くかと思われた平和が訪れたことはあります。

 

 が――

 それらは、いずれも不意の戦禍で打ち切られました。

 

 ごく局所的な平和でさえ、そうであったのですから――

 平和が世界各地に――それも、永遠の平和が――訪れるという見込みは、

 ――絶望的なまでに薄い。

 と、いってよいでしょう。

 

 そんなことは、カントにもわかっていたはずです。

 

 それでも、なお――

 カントは、あえて、

 ――永遠平和のために――

 の持論を世に問うたのです。

 

 その真意は――

 一般的にいわれているように、

 ――永遠平和は、達成はできなくても、人類が目標とするのには十分な意義を含んでいる。

 というところにあったのでしょう。

 

 (たしかに、そうだ)

 と僕も思います。

 

 ――永遠平和

 が実現をしたら、それは素晴らしいことであろうとは思います。

 

 が――

 実現は、おそらくは不可能です。

 

 ただし、

 ――永遠平和の近似

 なら、どうでしょうか。

 

 ――近似

 であったなら、実現は、ひょっとすると可能かもしれない――

 

 ――近似

 でも十分に素晴らしいと――

 僕は思います。

 

 そして、

 ――近似の永遠平和

 を目指すのであれば――

 まずは、

 ――厳密な意味での永遠平和

 の観念を精密に記しておく必要がある――

 

 それを記しておかない限り、

 ――近似の永遠平和

 が実現をみることはありえない――

 

 それゆえに――

 カントは、齢 70 を過ぎて臆面もなく、

 ――永遠平和のために――

 を世に問えたに違いない――

 

 そう思います。