マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

永遠平和は虚構的な観念ではない

 18世紀プロセインの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は、

 ――永遠平和(ewigen Frieden)

 それ自体の実現ではなく、

 ――永遠平和の近似

 の実現を重くみたのではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この見方は――

 カントが、

 ――永遠平和

 を実現の可能性が認められない虚構的な観念とみなしていた――

 ということを示すものではありません。

 

 カントは、

 ――永遠平和

 を、

 ――実現の可能性が保証をされている観念

 と、みなしていたと考えられます。

 

 が――

 実現の可能性が保証をされているからといって――

 そのうちに何となく実現をみるであろう、と――

 楽観的に考えてはいなかった――

 

 ……

 

 ……

 

 ――永遠平和

 は十分に実現をしうる観念ではあるが――

 その実現を目指し、あらゆる国家が努力を重ねない限り――

 決して実現はしない――

 

 そして――

 仮に――

 あらゆる国家が、

 ――永遠平和

 の実現を目指し、辛抱強く努力を重ねたところで――

 いつ実現をみるのかは、誰にもわからない――

 100 年後かもしれないし、10,000 年後かもしれない――

 

 そういう状態を、

 ――永遠平和

 と考えていたようです。

 

 つまり――

 人は、

 ――永遠平和

 に近づき続けようと努力をすることしかできない――

 

 近づいて、近づいて、近づいて――

 そのうちに、

 ――だいたい永遠平和

 と呼びうる状態に到達をしうるのではないか――

 

 そうした状態を――

 僕は、

 ――永遠平和の近似

 と呼んでいます。

 

 より具体的には、

 ――だいたいは平和の状態が持続をしているのだが、ごく稀に戦争の状態へと移行をする。しかし、その戦争は長くは続かずに、人の一生の時間軸でみたら、無視をしうるくらいの短期間で終結をする。

 という状態です。