マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

カントの“力強い跳躍”

 18世紀プロセインの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)が発した、

 ――どうすれば永遠平和(ewigen Frieden)が訪れるか。

 という問いは、21世紀序盤の現代においても、何ら輝きを失っていない――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 カントが、哲学の古代ギリシャ以来の大問題である、

 ――主観

 と、

 ――客観

 との乖離への取り組みでみせた姿には――

 頑強さや不屈さはあっても、鮮烈さや荘厳さがあったとまではいえません。

 

 少なくとも、鮮烈さについては――

 19世紀オーストリアの哲学者エドムント・フッサール(Edmund Husserl)が提唱をした現象学――

 あるいは――

 その中核的な手法の1つである、

 ――客観の保留

 という発想の転換――

 には及びませんでした。

 

 フッサールは――

 ごく簡単にいってしまうと――

 ――客観は存在をしえない。存在をしうるのは間主観――他者の自我を介しての疑似的な主観――である。

 と主張をし、

 ――主観、

 と、

 ――客観

 との乖離の問題に光を照らしたのです。

 

 が――

 このフッサール発想の転換の底流にあったのは、おそらくはカントの発想です。

 

 ――主観

 と、

 ――客観

 との乖離を埋めるには、人の認識の過程を前提から捉え直す必要がある、というフッサールの発想は――

 カントの着想に由来をしているといって、よいでしょう。

 

 いいかえるなら――

 カントは、

 ――主観と客観との間の乖離は、なぜ、このように広大なのか。

 と問うのをやめて、

 ――そもそも主観と客観との間には乖離が本当にあるといえるのか。

 と問うたのです。

 

 その思考の跳躍は――

 フッサールほど峻烈ではありませんでしたが――

 古代ギリシャ以来の大問題と向き合った不撓不屈の精神が具現化をされたような、

 ――力強い跳躍

 であったとはいえます。

 

 その“力強い跳躍”の威力が遺憾なく発揮をされたのが、

 ――どうすれば永遠平和が訪れるか。

 という問いでした。