マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

ブレンターノやフッサールの「志向性」とは別――

 ――地球外知的生命体

 の、

 ――知性

 を考える上で、

 ――外向

 と、

 ――内向

 とをまとめて、

 ――志向

 と記すことにする――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この、

 ――志向

 という言葉から――

 19~20世紀オーストリアの哲学者フランツ・ブレンターノが扱った、

 ――志向性

 を思い浮かべられる向きもあろうかと思います。

 

 ブレンターノが扱った「志向性」は、

 ――意識が自我によって常に対象へ及ぼされていること

 くらいの意味でした。

 

 その後――

 ブレンターノに師事をしたエトムント・フッサールに受け継がれることによって――

 フッサールの哲学――現象学――の中心的な観念の一つとなりました。

 

 ブレンターノやフッサールの「志向性」と――

 僕がいう、

 ――知的志向性

 ――知性の志向的な要素

 ――知性の志向性

 とは――

 基本的には無関係ですが――

 

 僕のいう「志向性」が、

 ――何らかの影響が知的生命体によって常に対象へ及ぼされていること

 という意味を含みうることから――

 

 少なくとも、

 ――よく似ている。

 とはいえるでしょう。

 

 そもそも――

 

 8月6日の『道草日記』で述べたように――

 ――知的外向性

 ――知性の外向的な要素

 ――知性の外向性

 や、

 ――知的内向性

 ――知性の内向的な要素

 ――知性の内向性

 といった観念も、ユングによる人の性格の分類名から準えたものです。

 

 よって――

 ちょうどよいといえば、ちょうどよい――

 

 ……

 

 ……

 

 とはいうものの――

 

 ここで僕がいっている「外向性」や「内向性」は――

 ユングの「外向性」や「内向性」とは基本的には無関係ですし――

 

 ここで僕がいっている「志向性」は――

 ブレンターノやフッサールの「志向性」とは基本的には無関係です。

 

 ただ、

 ――多少なりとも類比はできる。

 ということです。