――「粋(いき)」も「野暮(やぼ)」も感性の問題である。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
――感性の問題である。
とは、つまりは、
――主観でしか捉えられない。
ということです。
こう述べると、
――では、「粋」も「野暮」も誰かの思い込み、あるいは錯覚・幻覚に過ぎないというのか。
と訝る向きもありますが――
その疑念は当たりません。
――主観でしか捉えられない。
とは、
――間主観では捉えられる。
ということです――「間主観」とは、他者の視点を慮った上で成立しうる概念であり、他者の視点を介した主観のことです――間主観は他者の数だけ存在しえます。
これら間主観の数々が主観を支持することで客観らしき視点の存在が想定されていると考えられます――現代哲学の方法論の一つである現象学の考え方です。
きのうの『道草日記』で触れた哲学者・九鬼周造は、「粋」を現象学的に論考しています。
「粋」が主観でしか捉えられない現象ないし性質であることを受け入れれば、当然の発想です。
誤解を恐れずにいえば――
九鬼周造が論考した「粋」は、あくまで九鬼周造自身の粋です――もちろん、その粋は、数々の間主観によって幾重にも支持されていたはずであり、九鬼周造の思い込みや錯覚・幻覚ではありません。
誰もが、自分自身の粋をもっています。
九鬼周造は九鬼周造自身の粋を――あなたはあなた自身の粋を――僕は僕自身の粋を――もっています。
「粋」という概念を全く知らない非日本語圏の人も、その概念を習得すれば、その人なりの粋をもつようになります。
これらの「粋」は、互いに異なる現象ないし性質には違いありませんが、何らかの共通要素は見出せるはずで――
その共通要素は多分に最大公約数的なもので、個々の粋の豊かさを表象しうるものでは到底ありません。
「粋」を学問の対象にするということは、その“最大公約数”を見出しにいくという営みです。
「粋」を学問の対象にすることが野暮となるのは、つまりは、そういうことであるから――例えば、幾つもある10桁くらいの整数について、それら整数の最大公約数が僅か2~3桁であるにも関わらず、それをあえて指摘するようなことであるから――です。