マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「上品」は「野暮」――

 ――「粋」の対極は「野暮」である。

 ということを――10月31日以来、この『道草日記』で繰り返し述べています。

 

 この「粋」と「野暮」との構造は――

 しばしば直線で――例えば、数直線のような評価軸で――とらえられてしまいがちなのですが――

 僕は、

 (違う)

 と思っています。

 

 (直線的ではなく、平面的ないしは立体的にとらえるのがよい)

 と、僕は思っています。

 

 平面的な構造でも立体的な構造でも、説明の趣旨は同じです――ただ説明の煩雑さが増すだけ――

 よって、以下、平面的な構造でお示しします。

 

 「粋」と「野暮」との構造は、直線的ではありません。

 もし直線的な構造であるならば、「粋」の極みが無限遠方に存することとなってしまいます――これは、僕らの直観に反します。

 そうではなくて――

 

 「粋」と「野暮」との構造は、平面的なのです。

 「粋」の極みは、例えば、複素平面の原点――縦軸と横軸との交わる点――に存します。

 この平面を今、

 ――「粋・野暮」平面

 と呼びましょう。

 「粋・野暮」平面では、「野暮」の極みは無限遠方に存します――そのようにみなしても、僕らの直観には反しません――人は、野暮になら、いくらでもなれます。

 

 以上のように、「粋」と「野暮」との構造を平面的にとらえると、例えば、「上品」と「粋」との関係性がみえてきます。

 

 昭和前期の哲学者・九鬼周造も「上品」と「粋」との関係性を論じました。

 九鬼周造は、「上品」が「下品」の対極であることに留意をし、「粋」と「野暮」との評価軸と「上品」と「下品」との評価軸とをそれぞれ独立とみなしました。

 簡単にいってしまうと、「粋」や「野暮」は色気に関わる価値観であり、「上品」や「下品」は色気に関わらない価値観である、との主張です。

 

 僕は、違う見方をします。

 

 3日前・2日前の『道草日記』で述べたように――

 「粋」は、

 ――色気の嗜(たしな)み

 です。

 

 もちろん、「上品」が色気に関わらない価値観であることは、その通りです。

 よって、「上品」は「粋」ではありません――「粋」ではないので、「上品」は「野暮」です。

 

 もちろん、「下品」も「粋」ではありません。

 が、「下品」の場合は、「色気」が関わらないから「粋」でないのではなく、「嗜み」を欠いているから「粋」ではないのです。

 

 つまり、「上品」も「下品」も、「粋・野暮」平面の原点から離れていて、その離れ方は異なるのですが、たんに離れているという理由で、どちらも「野暮」なのです。

 

 よって――

 繰り返します。

 

 ――「上品」は「野暮」――

 です。