マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「野暮」の婉曲性

 ――「上品」は「粋(いき)」ではなく、「野暮」である。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 では――

 ――猥褻(わいせつ)

 は、どうか――

 

 「猥褻」については、2018年10月10日の『道草日記』で述べました。

 「猥褻」とは、

 ――色気と背徳との掛け合わせ

 であると、僕は考えています。

 ただし、ここでいう「背徳」とは、生殖欲求(少し気を利かせるなら「恋」)の関数です。

 数式らしく記せば、

  猥褻 = 色気 × 背徳(生殖欲求)

 となります。

 

 この数式に基づくと――

 「猥褻」は「粋」ではありえません。

 

 「粋」は「色気の嗜(たしな)み」でした。

 「背徳」は「嗜み」には、そぐいません――嗜む人は「背徳」とは無縁です。

 それは、おとといの『道草日記』で述べた「嗜む」の語義を考えれば明らかです。

 

 「猥褻」は「粋」ではありません――「野暮」です。

 

 こうして考えてみると――

 「野暮」というのは実に多様です――「上品」から「猥褻」まで、まったくつかみどころがない――

 

 この「野暮」の多様性は、「野暮」の婉曲性を引き出します。

 

 ――ちょいと、あんた、どこ行くんだい?

 ――なに、野暮用よ。

 というときの「野暮」は、「粋」の対極を指しているのではなく、「野暮」の婉曲性に依っています。