マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「野暮」の面白みは「粋」の洒脱さと繋がっている

 ――「野暮」の婉曲性

 について、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この婉曲性は意外に重要ではないか、と――

 僕は思っています。

 

 とくに、

 ――へりくだりの美徳

 という日本に固有の発想を考えるときに――

 「野暮」が果たしている役割は決して小さくはないように思います。

 

 例えば、

 ――野暮なことを申しました。

 という謝罪や、

 ――私、生来の野暮でして……。

 という謙遜は――

 「野暮」という言葉を用いなくても成立しえますが――

 それでは、いま一つ面白みに欠けるのです。

 

 「野暮」の面白みは、間違いなく「粋」の対義語としての「野暮」に由来しているに違いないでしょう。

 

 よって――

 誤解を恐れずにいえば――

 「野暮」の面白みは「粋」の洒脱さと根本で繋がっているとさえ、いってよいのです。