――「野暮」の面白みは「粋」の洒脱さと根本で繋がっている。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
いいかえると、「粋」という概念の垢抜けた様子が、その対義語である「野暮」に、軽妙な謙譲の美徳をもたらしている――
ということです。
「粋」と「野暮」との構造は、おとといの『道草日記』で述べたように――直線的な構造ではないにせよ――ある種の対立構造であるといってよいのですが――
双方が互いに多少なりとも従属しあっている点は、見落とせません。
「粋」がもつ肯定的な意味合いが「野暮」に多少なりとも影響を与えていることは、すでに述べました。
では――
その逆は、どうか――
例えば、「野暮」がもつ否定的な意味合いが「粋」に多少なりとも影響を与えている、ということは、あるでしょうか。
(ある)
と、僕は思っています。
つまり、「野暮」という概念の垢抜けない印象が、その対義語である「粋」に、鈍重な傲慢の悪徳をもたらしている――
ということです。
例えば、
――よぉ! お姐さん、粋だねぇ!
――何いってんだい。往(い)きじゃないよ、帰りだよ。
という掛け合いは――
「粋」がもつ嫌らしさを暗に示しています。
ここで「粋だねえ!」と評された女性が、
――ありがと。
などと応じようものなら――
もう、それは野暮というもので――
自分が粋であるかもしれないことを即座に保留しなければ、粋であるかもしれない可能性は失われるのです。
もちろん、「粋だねぇ!」と評される女性は、そう評されるだけの努力を十分に重ねているはずで、「粋だねぇ!」と評されて嬉しくないわけはないのでしょうが――
「粋」とは、常に自覚ではなく、他覚されうる価値観ですから、自分が本当に粋かどうかは、自分では絶対にわからない――
かといって、自分が「粋」であるかもしれない可能性を自分から否認するのも、とうてい粋ではありませんから――
それで仕方なく、「往きじゃないよ、帰りだよ」といって、すっとぼけるしかないのです。
「野暮」という概念には、いつも「粋」が陽を当てているように――
「粋」という概念には、いつも「野暮」が陰を落としているのです。