――恋愛と芸術とは「粋(いき)」や「野暮(やぼ)」で通底している。
と、きのうの『道草日記』で述べました。
繰り返しますが、
――粋
の対義語が、
――野暮
です。
よって、しばしば、
――「粋」とは何かを考えたり語ったりすることは野暮の極みである。
などといわれますが――
当然ながら、論理的には、
――「野暮」とは何かを考えたり語ったりすることもまた野暮の極みである。
という帰結にもなりえます。
何がいいたいかというと――
要するに、
――「粋」も「野暮」も感性の問題であって、しょせんは理性(正確には「悟性」)の及ぶところではない。
ということです。
「粋」にせよ「野暮」にせよ――
それらを考えたり語ったりするという営みは、結局は、感性を理性として捉えようとする、
――無理筋
の試みである――
ということです。
もちろん、「『粋』とは何かを考えたり語ったりすることは野暮の極みである」というのは、修辞としては大変に結構です。
が、それは「『野暮』とは何かを考えたり語ったりすることは野暮の極みである」といっているに等しく、要するに、「感性を理性として捉えることは誤りである」といっているにすぎません。
広く知られているように――
「粋」については、昭和前期の哲学者・九鬼周造が論考を残しています。
九鬼周造は、
――「粋」とは何かをあえて考え、語る、という野暮の極み
を実践した人ですが――
九鬼周造自身は、つねに粋な生き方を志向していた、といわれます。
九鬼周造の「粋」についての論考を堪能しようと思ったら、九鬼周造自身の粋の感性の中身を想像することが必要です。
そうすることなしに、九鬼周造の「粋」についての論考に触れても、得られる知見は乏しいに違いありません。
――九鬼周造が「粋」についての論考で示しえたことは、「粋」を論考の対象に据えてしまうと、たとえ九鬼周造ほどの粋な人物であっても、野暮へと不可避的に陥ってしまう、という知見くらいだ。
という結論になってしまいます。
それは、その通りかもしれませんが――
でも――
ここに九鬼周造の学者としての矜持が潜んでいたと、僕は考えます。
――「粋」を学問の対象とすることで、「粋」は台無しになるけれども、それが学問という営みの本質であるならば、致し方ない。
という達観の境地ではなかったかと想像します。
このことは「粋」についてだけではなく、「野暮」についてもいえますし――
また――
恋愛や芸術についてもいえます。