マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

粋は自覚されるのではなく他覚される

 ――粋(いき)

 とは、

 ――色気の嗜(たしな)み

 である、ということを――この『道草日記』で連日、述べております。

 

 このことに関し、ぜひとも指摘しておきたいことは、

 ――粋は決して自覚されえない。

 ということです。

 

 例えば、誰かの様子をみて、

 ――ああ、彼は実に粋だなぁ。

 とか、

 ――なんて粋な女性なんだ。

 と感じられることはあっても、

 ――オレは粋だ。

 とか、

 ――粋なアタシ!

 と思うことはありえない、ということです。

 もし、そういうことを思うのであれば、それは絶対に「粋」ではありえない――それは、たぶん「粋」以外の何かです。

 

 粋は自覚されることではなく――

 他覚されることです。

 

 このことは、粋が色気をまとっているからでしょう。

 

 きのうの『道草日記』で、

 ――「粋」に芯があるとすれば、それは「嗜み」である。

 と述べましたが――

 その芯を包み込んでいるのは、

 ――色気。

 です。

 

 自分の色気は――もし、本当に色気があるとしても――決して自覚できません。

 人は、誰か他の人の色気しか、感じとることはできないです。