マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

野暮にならない「粋がる」の使い方

 ――「粋(いき)がる」という言葉は使い勝手が悪い。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 要するに、

 ――粋というのは、誰かの所作や態度に対して自分自身が感じとる性質であり、その“誰か”自身が感じとる粋と自分自身が感じとる粋とは、ふつうは異なるので、「粋がる」は使い勝手が悪い。

 ということです。

 

 つまり、

 ――おめぇ、なに粋がってんだよ!

 と詰ったら、

 ――てめぇにオレの粋がわかるっていうのかよ!

 と返されてオシマイです。

 さらには、

 ――オレの何に粋を感じたのか知らねぇが、そんなもんを粋に感じてるようなら、てめぇは野暮の塊よ!

 と突っ込まれるでしょう。

 

 では――

 「粋がる」は、どのように使えばよいのでしょうか。

 

 例えば、このように使えばよいでしょう。

 ――いつかは粋がってみたいものよ。

 

 反実仮想です。

 実際に粋がることはできない――自分自身が醸し出そうとする粋は、しょせんは独りよがりの粋にすぎない――そんなものは粋でも何でもない――が、そうはいっても、やはり、自分自身で納得のいく粋を醸し出してみたい――そんなことが無理なのは百も承知なのだが――

 

 そういう文脈のもとで「いつかは粋がってみたいものよ」といえば――

 その「粋がる」が野暮になることはないでしょう。