マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「今の日本」の相対化

 今の日本は、数多(あまた)あった可能性の中の一つにすぎぬ――というアイディアに魅せられて、久しい。

 今の日本が、今の日本であったためには――
 数多の歴史的分岐点において、その都度、然るべき途(みち)が選びとられねばならなかった。

 例えば、元寇で蒙古軍に敗れなかった途が――
 例えば、織田信長が本能寺で討たれた途が――
 例えば、黒船に侵略されなかった途が――
 例えば、日露戦争で敗れずに済んだ途が――
 例えば、対米開戦に踏み切った途が――

 これら分岐点のどこかで異なった途が選ばれていれば――
 今の日本は、今の日本ではなかったかもしれぬ。

 そのことを実感したくて――
 僕は物語を紡いでいる。

 例えば、元寇で蒙古軍に敗れていたら、どうなっていたか――
 例えば、織田信長が本能寺で討たれなかったら、どうなっていたか――
 例えば、黒船に侵略されていたら、どうなっていたか――
 例えば、日露戦争で敗れていたら、どうなっていたか――
 例えば、対米開戦に踏み切っていなかったら、どうなっていたか――

 大学時代の同級生には、

 ――そんなことを考えるイミがわかんねえ!

 とバカにされた。

 たしかに、そうかもしれぬ。

 が――
 たとえ意味がわからなくても考えるのが、物書きという人種の性(さが)である。
 いうなれば、

 ――そんなことを考えねえイミがわかんねえ!

 である。

 僕は、なぜ物語を紡ぐのか――

 今の日本が、数多あった可能性の中の一つにすぎぬ――ということを実感するためである。

 僕が小説を書くときに、ほぼ必ずといってよいほど、ファンタジーになるのは、そのためだ。

 今の日本だけを舞台に小説を書くのは――
 ちょっと考えられぬ。