最近、イジメの報道が喧(かまびす)しい。
一連の報道の中には――
イジメを苦に自殺した子供の親が、TVカメラを前にし、今も全国のどこかでイジメられているであろう子供たちに向かって、メッセージを発しているものがある。
曰く、
――どうか一人で苦しんでいないで、親御さんや先生に助けを求めて欲しい。
と――
(わかってないんだな)
と思う。
子供は、親や教師に助けを求めたくないから、自殺するのだ。
自殺を決意する子供は――
苦しみを一人で背負い込むことにこそ、プライドの全てをかけている。
――助けを求めるくらいなら、死んでやる!
というのが、自殺する子供の、もう一つの意志表示である。
僕もイジメられたことがある。
小学生のときだった。
イジメられているという事実を、親には絶対に話したくなかった。
むろん、教師にも話したくなかった。
それがプライドだった。
幸いなことに、僕の場合は大過なく成人できたわけだが――
もし、当時の僕に、少しでも死への親しみがあったなら――
今の僕は、なかったかもしれぬ。
イジメられている子供を救う際には、いかにプライドを傷つけずに救うかが重要なのだ。
――助けを求めるくらいなら――
という頑(かたくな)な心を、いかに、ほぐしてあげるかが重要なのだ。
そのような意味で、
――どうか一人で苦しんでいないで――
というメッセージは不十分である。
たぶん、イジメられている子供には届くまい。
もちろん――
そのメッセージに、我が子を亡くした親の悲しみを感じとることはできる。
が、それだけだ。