二十歳の頃に、
――学問は遊びである。
と主張して――
一部でヒンシュクをかったことがあったのですが――
学問は、人の生きるという営為に直接的に寄与しないという意味では、たしかに「遊び」でありましょう。
例えば、政治や経済――
あるいは、養育・教育、医療・福祉――
こういったものは「遊び」ではありません。
人の生きるという営為に直接的に寄与しています。
同じことは、芸術や娯楽にもいえましょう。
学問が「遊び」であるように、芸術や娯楽もまた「遊び」であります。
むろん――
「遊び」だからといって、学問や芸術、娯楽の重要性がいささかも失われることはありません。
人は、「遊び」がなければ、十分には人たりえないからです。
が――
「遊び」は、元来、主観的なものです。
少なくとも、個々の「遊び」の意義は、主観的にとらえられるものです。
つまり、ある人にとっての「遊び」が、他の人にとっての「遊び」でもある保証はない――
もし、万人に共有される「遊び」が出てきたら――
それは、もはや「遊び」ではなくなっているでしょう。
「遊びならざる遊び」です。
そういう「遊び」を生み出す公算が高いのは――
学問でしょう。
芸術や娯楽は、ちょっと生み出しそうにはない――
そこでは、万人に共有されうる価値観というものが、存在しにくいはずです。
が――
学問の領域では、存在しうる――
学問が「遊びならざる遊び」を生み出すとき、学問は学問であることをやめるでしょう。
例えば、経済になったり、医療になったりする――
科学が新たな科学技術を生み出し、それが産業に転用されようとするとき――
その科学の営みは、学問であることをやめ、経済になっています。
医学が新たな治療方法を生み出し、それが臨床に転用されようとするとき――
その医学の営みは、学問であることをやめ、医療になっています。