マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

英語は“学ぶ”ではなく“扱う”

 日本の英語教育の――
 低年齢化が進んでいます。

 ひと昔前までは、

 ――英語は中学校から!

 でした。

 が――
 今は、小学校から――

 習いごとや塾の類いを含めれば――
 乳児期から始まっている、というのが実情です。

 言語の習得は、年齢が低ければ低いほどに有利であると考えられています。

 英語教育の低年齢化の流れは、もはや誰にも止められないでしょう。

 ところで――

 ……

 ……

“英語教育の低年齢化”以上に大切なのが、

 ――日本語教育の高年齢化

 であると――
 僕は考えています。

 小学生で英語――
 は大いに結構です。

 が――
 高校や大学は日本語――

 大学院では、さらに日本語――

 つまり――
 英語教育の低年齢化と引き換えに――
 日本語教育の高年齢化が求められてくる――
 ということです。

 このように述べると、当然、

 ――では、高校生や大学生、大学院生は英語を学ばなくてよいのか。

 という話になります。

 その通りです。

 僕は――
 高校生はともかく――
 大学生や大学院生は、
(もはや英語を学ぶ必要はない)
 と考えています。

 学ぶ必要があるのではなく――
 扱う必要がある――
 ということです。

 どういうことか――

 僕は、大学時代に医学を専攻しましたので――
 医学を例にとりますと――

 ……

 ……

 医学教育を基本的には全て日本語で行う――
 ということです。

 例えば、高血圧症の発病の仕組みを、日本語で丁寧に学んでいく――

 その結果、高血圧症の概念を基礎から十分に理解できたなら――
 現行の高血圧症の診断の基準や治療の方針が妥当かどうかを学生同士で議論する――

 その際、日本語での議論とは別に、英語での議論を必ず課すようにする――

 英語で議論をするとなれば――
 もちろん、英語の文献も十分に読み込まねばならない――

 つまり――
 高血圧症の概念を日本語で学び――
 学んだことを、日本語だけでなく、英語で扱うことは求めるが――

 高血圧症の概念を、わざわざ英語で学ぶようなことは、決して求めない――

 それが「英語で学ぶ必要はない」の真意です。

 そして――
 僕がいう「日本語教育の高年齢化」とは――
 とくに医学に限った話ではなく――

 種々の学問における様々な分野の最先端の知見を、日本語で学べるようにする――
 ということを指しています。

 もし、最先端の知見が英語でしか学べないのであれば――
 その内容を日本語に翻訳し、日本語で教える――それこそが、高等教育の現場に課せられた最も大切な使命である、と――
 僕は考えています。

 その翻訳の努力は――
 今日の日本社会への利益還元には、ならないかもしれません。

 が――
 遠い将来の日本人たちには、必ずや、多大な恩恵をもたらすでしょう――
 明治の先人たちの翻訳が、昭和や平成の日本人たちに多大な恩恵をもたらしたように――