当たり前のことを、
――当たり前だ。
と――
経験で納得をしたがるか――
それとも――
論理で納得をしたがるか――
これら2種類に、どちらかに――
多くの人は分類されうるように思います。
経験で納得をするというのは、一般に難しいことではなく――
子どもあっても、物心がついていれば、十分に可能です。
が――
論理で納得をするというのは、一般に易しいことではなく――
相応の思考のトレーニングをこなしておく必要があります。
つまり――
論理での納得は、経験での納得よりも、高い知的技量を要求します。
よって――
ふつうに考えれば、
――論理で納得ができる人は、経験でも納得ができる。
と、なるはずなのですが――
どうも、そうではないようです。
一般に――
論理での納得を習得した人は――
経験での納得には懐疑的となります。
経験での納得は、再現性に乏しく――
なかなか確認がとれないために――
しばしば誤った教唆をもたらすからです。
一方――
論理での納得は、再現性に優れ――
何度でも繰り返し確認がとれるために――
しばしば誤った教唆を除くことができます。
よって――
論理での納得を習得した人は――
経験での納得よりも、論理での納得を重視しがちです。
ところが――
実際には――
論理での納得と同じくらいに――
経験での納得も重要なのですね。
論理での納得は、たしかに再現性には優れていますが――
反証可能性には乏しいからです。
反証可能性とは――
誤っていることの証明の方法を明確に示せるかどうか、ということです。
例えば、
――もし、私の納得が間違っているのなら、次のような事実を指摘できるはずだ。
といえるとき――
その納得には反証可能性があるといえます。
論理は、人の思考が組み立てるものという意味では、虚構です。
論理での納得は、最終的には虚構に依っているため――
その気になれば、いくらでも反証可能性を削除できるのですね――誤っていることの証明ができないような論理を組み立ててしまえばよい――
例えば――
次のような例です。
*
頭髪が 0 本の男は禿げである。
いま――
頭髪が K 本の男を「禿げ」とみなせるとき――
頭髪が K+1 本の男を「禿げ」とみなせることは自明といえる。
よって、数学的帰納法により、頭髪が何本であろうと、男は禿げである。
*
この論理による納得は――
経験による納得によって、簡単に覆ります。
通常の成人男性の頭髪の本数は、ざっと十万本といわれていますから――
頭髪が約十万本の男、三万本の男、一万本の男、三千本の男、一千本の男、三百本の男を見比べる“経験”によって――
容易に反証されます。
つまり――
……
……
当たり前のことを、
――当たり前だ。
と納得するには――
経験だけに頼っても、論理だけに頼ってもダメである――
ということですね。
両方に等しく頼る必要があります。