マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

堯舜の治にみる“鈍感さ”(6)

 ――堯(ぎょう)舜(しゅん)の治

 にみる“鈍感さ”は――
 自分自身の心の動きに対する鈍感さ――例えば、利己や保身に対する鈍感さ――であって、自分の周囲を取り巻く現実の状況に対する鈍感さではない――
 ということを――
 きのうの『道草日記』で述べました。

 簡単にいうと――
 堯舜の治にみる“鈍感さ”は、

 ――無私の心に根ざした鈍感さ

 ということです。

 ……

 ……

 以上のようなことを――
 あれこれと考えたくなったのは――

 昨今――
 以下のような問題意識を抱いたからです。

 すなわち、

 ――堯や舜が、今日の民主主義制を目の当たりにしたときに、何を思い、いかに動くだろうか。

 という問題意識です。

 ……

 ……

 一ついえることは――

 堯や舜が、自ら民主主義の思想を編み出し、それを世に問い、実行に移そうと働きかけるということは、
(絶対にないだろう)
 ということです。

 仮に、堯や舜が政治思想の天才であって、諸外国に先駆け、民主主義制の意義や必要性に気づいていたとしても――
 彼らは、自分自身の心の動きには鈍感ですから――
 決して、その理想を世に問うことはしなかったはずです。

 が――

 ……

 ……

 諸外国の多くが――全てではないにしても、多くの諸外国が――民主主義制を採用し、国力を大いに伸ばしてきた現状を目の当たりにしたときに――
 堯や舜は、何を思い、いかに動くのか――

 彼らは――
 宋(そう)襄(じょう)の仁で有名な宋の襄公とは違って――
 自分の周囲を取り巻く現実の状況には、十分に敏感であったと考えられます。

 よって――
 必ず、何かは思うはずです。

 その思いを踏まえた上で――
 いかに動くのか――

 万難を排して――
 自国への民主主義制の導入に突き進むのか――

 それとも――

 ……

 ……

 もちろん、

 ――あえて動かない。

 という決断も――
 当然ながら、ありうるでしょう。

 その場合には――
 背景に――
 例えば、

 ――自国に民主主義制を導入し、失敗したとする。それによって、私が失脚したり殺害されたりするのは構わない。が、数多の民が亡国や騒乱に喘ぐとなれば、別儀である。

 といった思いが、あることでしょう。