――堯(ぎょう)舜(しゅん)の治
にみる“鈍感さ”は――
自分自身の心の動きに対する鈍感さ――例えば、利己や保身に対する鈍感さ――であって、自分の周囲を取り巻く現実の状況に対する鈍感さではない――
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
簡単にいうと――
堯舜の治にみる“鈍感さ”は、
――無私の心に根ざした鈍感さ
ということです。
……
……
以上のようなことを――
あれこれと考えたくなったのは――
昨今――
以下のような問題意識を抱いたからです。
すなわち、
――堯や舜が、今日の民主主義制を目の当たりにしたときに、何を思い、いかに動くだろうか。
という問題意識です。
……
……
一ついえることは――
堯や舜が、自ら民主主義の思想を編み出し、それを世に問い、実行に移そうと働きかけるということは、
(絶対にないだろう)
ということです。
仮に、堯や舜が政治思想の天才であって、諸外国に先駆け、民主主義制の意義や必要性に気づいていたとしても――
彼らは、自分自身の心の動きには鈍感ですから――
決して、その理想を世に問うことはしなかったはずです。
が――
……
……
諸外国の多くが――全てではないにしても、多くの諸外国が――民主主義制を採用し、国力を大いに伸ばしてきた現状を目の当たりにしたときに――
堯や舜は、何を思い、いかに動くのか――
彼らは――
宋(そう)襄(じょう)の仁で有名な宋の襄公とは違って――
自分の周囲を取り巻く現実の状況には、十分に敏感であったと考えられます。
よって――
必ず、何かは思うはずです。
その思いを踏まえた上で――
いかに動くのか――
万難を排して――
自国への民主主義制の導入に突き進むのか――
それとも――
……
……
もちろん、
――あえて動かない。
という決断も――
当然ながら、ありうるでしょう。
その場合には――
背景に――
例えば、
――自国に民主主義制を導入し、失敗したとする。それによって、私が失脚したり殺害されたりするのは構わない。が、数多の民が亡国や騒乱に喘ぐとなれば、別儀である。
といった思いが、あることでしょう。