マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

再び「鈍感の美徳」へ

 ――鈍感の美徳

 という概念を――
 ちょうど1週間前の『道草日記』でお示ししました。

 この“美徳”が真に美徳であるためには――

 当然ながら――
 その“鈍感”が、きのうまでの『道草日記』で繰り返し触れてきた、

 ――堯(ぎょう)瞬(しゅん)の治

 にみる“鈍感さ”に通じている必要があります。

 すなわち――
 鈍感なのは、あくまで、自分自身の心の動きに対してのみ――例えば、利己や保身に対してのみ――でなければならず――

 それ以外に対しては――例えば、自分の周囲を取り巻く現実の状況に対しては――むしろ、十分に敏感でなければなりません。

 そうでないと、

 ――鈍感の美徳

 は、とうてい成立しえず、

 ――ただの無能

 とか、

 ――単なる怠惰

 で片付けられてしまいます。

 ……

 ……

 以上の主張は――
 きわめて古代中国的――ひいては、東洋的――といってよいでしょう。

 例えば、欧米人に説明をしても――
 すぐにはわかってもらえません。

 何年か前に――
 ある欧米人に、意を尽くして説明を試みたことがあります。

 その人は、

 ――鈍感の美徳

 について、ある程度は理解を示してくれましたが――

 それでも――
 最後まで、

 ――ただの無能

 や、

 ――単なる怠惰

 との違いに納得がいかなかったようです。

 きっと――
 堯舜の治や宋(そう)襄(じょう)の仁などを――
 具体的な挿話として、示せればよかったのでしょうが――

 当時の僕には、示せませんでした。