マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

画家が女の人の裸を描くのは

 ――肉体美

 の話をしていて――
 思い出すことがあります。

 10代の半ば頃――

 学校の美術の先生に――
 こんなことをいわれて大いに面食らったのです。

 ――画家が女の人の裸を描くのは、いやらしい気持ちからではなくて、女の人の裸が美しいから描くんだよ。

 そういったのは――
 当時おそらく30~40代であった女性です。

 画家としても活動していたらしい人でしたので――
 説得力がありました。

 それから30年が経って――40代の半ばになって――

 今――
 僕は、
 (あの時、あの先生がいっていたことは、“自然的な肉体美”と“観念的な肉体美”との区別に違いない)
 と思っています。

 つまり、

 ――画家が女の人の裸を描くのは、“観念的な肉体美”に関心があるからではなく、“自然的な肉体美”に関心があるからだ。

 と、いうようなことを――
 あの先生はいいたかったのではないか――

 ……

 ……

 そう考えると――
 よくわかることがあります。

 当時――
 僕がもっていた美術の図鑑には、裸婦の写真が載っていました。

 少しぼかして写してはありましたが――
 どうみても裸の女性が、画家の前でポーズをとっている写真でした。

 (なんで裸なんだろ? せめてレオタードでも着せればいいのに――)
 と思った記憶があります。

 今は――
 よくわかります。

 “自然的な肉体美”に関心を向ける美術の図鑑としては――
 裸でなければ、困るのです。

 レオタードを着せたら――
 もう、それは“自然的な肉体美”ではなくなる――“観念的な肉体美”となってしまう――

 レオタードは――
 そのデザインの意図に従って――
 裸の女性の自然物としての体のズレを精緻に補正するからです。

 裸の女性は、レオタードを身につけた瞬間に、“自然的な肉体美”を失い、“観念的な肉体美”を備えることになる――

 それだと――
 美術の目的が失われるのです。