マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

愚かさの研究

 人工知能や知能について考えているうちに、

 (愚かさって何だ?)

 ということが気になり始めました。

 

 (“人工知能や知能の研究”より、“愚かさの研究”のほうが、ずっと大事なんじゃないだろうか)

 と思うようになったのです。

 

 ここでいう、

 ――愚かさの研究

 というのは――

 例えば、

 ――人は実際には愚かであるにも関わらず、自分のことを、つい愚かでない――賢い――と勘違いをしてしまいがちであるから、そのような勘違いから自由であるためには、どうすればよいのか。

 という問題意識を突き詰めることではなく――

 また、

 ――人の社会の進歩の可能性は、ときに賢明な選択によって閉ざされ、暗愚な選択によって開かれることがある。暗愚な選択を適切に活かしていくことが、人の社会の永続的な進歩には不可欠である。

 という問題意識を突き詰めることでもありません。

 

 そもそも、

 ――愚かさ

 とは何なのか――

 

 どのような性質なのか――

 

 どのような概念なのか――

 

 それらの問いに対する答えを明らかにすることが、

 ――愚かさの研究

 です。

 

 同じ発想で、

 ――賢さの研究

 に着目をしても、よいのかもしれませんが――

 

 (それは、そんなに重要じゃない)

 と今の僕は直感をしています。

 

 ――賢さ

 は誰もが興味をいだく性質・概念です。

 

 おそらく――

 古来より考え尽くされています。

 

 が、

 ――愚かさ

 は、どうでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 ――愚かさ

 など――

 できれば、考えたくない――

 そんな性質・概念とは、なるべく無縁でいたい――

 

 そのような心情に陥る人が殆どでしょう。

 

 よって――

 おそらく古来より、そんなに多くは考えられてはいないはずである――

 

 そのように思ったのです。