人工知能を、
――神託(oracle)型
――ジーニー(Genie)型
――君主(sovereign)型
の3つの範疇に分けることは――
少なくとも、21世紀序盤の現代においては、有意義なことでしょう。
現代においては――
人工知能が今後どこまで高度で複雑になりうるのかが、簡単には見通せないからです。
おととい以降の『道草日記』で繰り返し述べてきたように、
――神託型
――ジーニー型
――君主型
の分類は、分類の趣旨それ自体は有意義であるものの――
それとは別に、3つの範疇の呼称は、少なくとも日本語で考える上では、それほどに効果的ではないように思えます。
僕が提案をしているのは、
――電卓型
――秘書型
――社長型
ですが――
そもそも、この分類は、人工知能が人によって制御をされえないほどに高度で複雑になることへの警鐘を鳴らすために、考案をされたようですから――
その「人によって制御をされえないほどに」の部分に力点を残すのであれば――
例えば、
――巫女型
――精霊型
――主神型
と表記をするのが、よいかもしれません。
つまり――
現代の人工知能は、本質的には電卓と大差がないものの――
この“電卓”を、不用意に秘書なみに高性能にしたり、無思慮に社長なみに自律的にしたりすると――
やがて、“秘書”は“精霊”となり、“社長”は“主神”――“全知全能の最高神”のような支配者――となり、人の制御を受けなくなる――
というのが、
――神託型
――ジーニー型
――君主型
の分類の真意であろう――
ということです。
ここで見過ごせないことは――
その“電卓”を秘書なみに高性能にしたり、社長なみに自律的にしたりすることは、少なくとも原理的には、それほどに難しくはないはずである――
ということです。
おそらく、その“電卓”に、人が生まれてから大人になるくらいまでの間に絶えず受けとり続ける多種多様の情報を、与えればよいのです。
とはいえ――
その実行は、少なくとも現代の科学技術では、不可能でしょう。
11月23日以降の『道草日記』で繰り返し述べてきたように――
その情報の量は、問題ではありません。
人が一生のうちに受けとれる情報の量は、人工知能が処理をしうる情報の量に比べたら、それほどに多くはありません。
問題なのは――
情報の質です。
それだけ多種多様な情報を人工知能に学ばせることが――
現代の科学技術では、おそらくは不可能なのです。