マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

運動と知覚とは不可分である

 ――“身体の内部に溜まる全エントロピー(entropy)” S (t) 

 は、

  S (t) = ∫ q (x; t)(− ln p (x, s; t))dx

 で表すことができ――

 

 この S (t) は――

 概して――

 主に運動をしている時に増え――

 主に知覚をしている時に減る――

 といえる。

 

 つまり、

 ――運動

 と、

 ――知覚

 とは、S (t) の増減を巡って互いに鬩(せめ)ぎ合っている――

 ということである。

 

 この、

 ――運動と知覚との均衡

 が、

 ――精神の意義

 といえよう。

 

 ただし――

 q (x; t) は、身体の持ち主が、身体の外部における状態について、主観的に見積もる確率であり――

 x は、身体の外部における状態を決める変数であり――

 − ln p (x, s; t) は、身体の持ち主が、身体の外部における状態について、感覚器を通して察するエントロピーであり――

 ln は、高校の数学で学ぶ自然対数であり――

 s は、身体の感覚器が受け取る信号を決める変数である。

 

 ……

 

 ……

 

 とはいえ――

 

 ――運動と知覚との均衡

 という表現は――

 そもそも、

 ――運動と知覚とは不可分ではない。

 ということを――

 つまり、

 ――運動と知覚とは可分である。

 ということを――

 前提としている。

 

 この前提は――

 実際には、極めて特殊だ。

 

  S (t) = ∫ q (x; t)(− ln p (x, s; t))dx

 の微分を考え、

  d S (t) = ∫{d q (x; t)(− ln p (x, s; t))+ q (x; t) d(− ln p (x, s; t))}dx

 を導き――

 この d S (t) について、時刻 t から時刻 t + Δt にかけ、概算の積分が行えそうであるからこそ――

 

 主に運動をしている時として、

 

  Δ S (t)

  = ∫{Δ q (x; t)(− ln p (x, s; t))+ q (x; t)・0}dx

  = ∫ Δ q (x; t)(− ln p (x, s; t))dx

  = Δ A (t)

 

 が得られ――

 主に知覚をしている時として、

 

  Δ S (t)

  =  ∫{0・(− ln p (x, s; t))+ q (x; t) Δ(− ln p (x, s; t))}dx

  =  ∫ q (x; t) Δ(− ln p (x, s; t))dx

  = Δ P (t)

 

 が得られるのである。

 

 より一般的には、

  d S (t) = ∫{d q (x; t)(− ln p (x, s; t))+ q (x; t) d(− ln p (x, s; t))}dx

 を前提とせざるをえぬ。

 

 が――

 この前提の下で考える微小変化の量は、

 ――“神経系の生理”の時間の尺度の最小単位

 と比べれば、無視をされうるくらいに小さい――

 

 裏を返すと、

 ――“神経系の生理”の時間の尺度の最小単位

 は、微分で考える微小変化の量より遥かに大きい――

 

 この意味は何か。

 

 ……

 

 ……

 

 自明であろう。

 

 ――運動と知覚とは不可分である。

 ということである。

 

 より精確にいえば、

 ――運動と知覚とは、少なくとも“神経系の生理”の時間の尺度に照らせば、不可分である。

 ということである。

 

 『随に――』